第90話 帰らぬ足跡
足跡は、誰かが生きた証だ。
だが——
帰るための足跡がないのなら、それは証ではない。
呼ばれた者だけが残す、道標なのかもしれない。
夜明け前。
地下海へ続く隔壁が、ひとりでに開いた。
誰も認証していない。
重い金属音が響く。
玲司とアヤは顔を見合わせた。
「向こうが呼んでる。」
玲司の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
アヤは短く息を吐く。
「だったら、勝手に一人で行くのは禁止。」
「……分かった。」
その約束だけが、二人を現実につなぎ止めていた。
◇
地下海の岸辺。
昨夜より足跡が増えている。
玲司はしゃがみ込み、砂を指先でなぞった。
乾いていない。
ついさっき付いた跡だ。
「裸足。」
「しかも体重が軽い。」
アヤが続ける。
「子ども?」
玲司は首を横に振った。
「違う。」
歩幅が一定すぎる。
迷いがない。
まるで最初から行き先を知っている歩き方だった。
足跡を追う。
一歩。
また一歩。
水面の上へ。
そこで普通なら終わるはずだった。
だが足跡は沈まない。
水面に白く刻まれたまま続いている。
◇
途中で、一つだけ違う跡があった。
深い。
かかとだけ強く沈んでいる。
誰かが振り返った跡だった。
玲司は胸が締め付けられる。
「帰ろうとした。」
その言葉に、アヤが目を細める。
「でも帰れてない。」
足跡はそこで終わっていた。
まるで存在そのものが切り取られたように。
◇
水面の中央。
霧が立ち込めている。
その奥に、黒い影が見えた。
人影。
立っている。
玲司は呼びかける。
「そこにいるのは誰だ!」
返事はない。
影は動かない。
アヤが照明を向ける。
光が届く。
その瞬間。
影は一人ではなかった。
五人。
十人。
数え切れない。
全員がこちらを向いて立っている。
顔は見えない。
ただ胸の中央だけが暗かった。
鼓動のない場所。
玲司は一歩踏み出しかける。
その腕を、誰かが掴んだ。
アヤではない。
冷たい手。
振り向く。
誰もいない。
手だけが残っていた。
白い指先。
世界樹の根の色をしていた。
瞬きをする。
消えた。
◇
AQUA-7・記録保管室。
管理体は古い音声ログの復元を続けていた。
激しいノイズ。
言葉にならない。
それでも、一瞬だけ声が重なる。
『……返すな。』
『……まだ早い。』
『……世界は覚えてしまう。』
最後に、聞き覚えのある声が入る。
榊悠真だった。
『玲司。』
管理体は息を止める。
続きは再生されない。
データが途中で消えていた。
いや。
消されたのではない。
誰かが未来へ持ち去ったような欠落だった。
◇
地下海。
霧が揺れる。
人影が一歩だけ前へ出た。
その足元から、小さな波紋が広がる。
外へではない。
内側へ沈む波紋。
玲司の鼓動が、その波紋と重なる。
一拍。
沈黙。
一拍。
すると、霧の向こうから初めて声が届いた。
「ようやく。」
男とも女ともつかない声。
「約束の続きを始められる。」
その言葉と同時に、地下海の底で巨大な何かが目を開いた。
第90話「帰らぬ足跡」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は地下海の足跡を追うことで、「呼ばれた者は帰れない」という不穏な法則を描きました。
榊悠真の音声ログ、霧の中の人影、そして地下海の底で目を開いた存在。
物語はここから、「約束」の正体へ少しずつ近づいていきます。
次話では、地下海に眠る存在が初めて世界へ干渉を始め、玲司たちの選択が試されることになります。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




