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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第90話 帰らぬ足跡

足跡は、誰かが生きた証だ。


だが——


帰るための足跡がないのなら、それは証ではない。


呼ばれた者だけが残す、道標なのかもしれない。

夜明け前。


地下海へ続く隔壁が、ひとりでに開いた。


誰も認証していない。


重い金属音が響く。


玲司とアヤは顔を見合わせた。


「向こうが呼んでる。」


玲司の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


アヤは短く息を吐く。


「だったら、勝手に一人で行くのは禁止。」


「……分かった。」


その約束だけが、二人を現実につなぎ止めていた。



地下海の岸辺。


昨夜より足跡が増えている。


玲司はしゃがみ込み、砂を指先でなぞった。


乾いていない。


ついさっき付いた跡だ。


「裸足。」


「しかも体重が軽い。」


アヤが続ける。


「子ども?」


玲司は首を横に振った。


「違う。」


歩幅が一定すぎる。


迷いがない。


まるで最初から行き先を知っている歩き方だった。


足跡を追う。


一歩。


また一歩。


水面の上へ。


そこで普通なら終わるはずだった。


だが足跡は沈まない。


水面に白く刻まれたまま続いている。



途中で、一つだけ違う跡があった。


深い。


かかとだけ強く沈んでいる。


誰かが振り返った跡だった。


玲司は胸が締め付けられる。


「帰ろうとした。」


その言葉に、アヤが目を細める。


「でも帰れてない。」


足跡はそこで終わっていた。


まるで存在そのものが切り取られたように。



水面の中央。


霧が立ち込めている。


その奥に、黒い影が見えた。


人影。


立っている。


玲司は呼びかける。


「そこにいるのは誰だ!」


返事はない。


影は動かない。


アヤが照明を向ける。


光が届く。


その瞬間。


影は一人ではなかった。


五人。


十人。


数え切れない。


全員がこちらを向いて立っている。


顔は見えない。


ただ胸の中央だけが暗かった。


鼓動のない場所。


玲司は一歩踏み出しかける。


その腕を、誰かが掴んだ。


アヤではない。


冷たい手。


振り向く。


誰もいない。


手だけが残っていた。


白い指先。


世界樹の根の色をしていた。


瞬きをする。


消えた。



AQUA-7・記録保管室。


管理体は古い音声ログの復元を続けていた。


激しいノイズ。


言葉にならない。


それでも、一瞬だけ声が重なる。


『……返すな。』


『……まだ早い。』


『……世界は覚えてしまう。』


最後に、聞き覚えのある声が入る。


榊悠真だった。


『玲司。』


管理体は息を止める。


続きは再生されない。


データが途中で消えていた。


いや。


消されたのではない。


誰かが未来へ持ち去ったような欠落だった。



地下海。


霧が揺れる。


人影が一歩だけ前へ出た。


その足元から、小さな波紋が広がる。


外へではない。


内側へ沈む波紋。


玲司の鼓動が、その波紋と重なる。


一拍。


沈黙。


一拍。


すると、霧の向こうから初めて声が届いた。


「ようやく。」


男とも女ともつかない声。


「約束の続きを始められる。」


その言葉と同時に、地下海の底で巨大な何かが目を開いた。

第90話「帰らぬ足跡」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は地下海の足跡を追うことで、「呼ばれた者は帰れない」という不穏な法則を描きました。


榊悠真の音声ログ、霧の中の人影、そして地下海の底で目を開いた存在。


物語はここから、「約束」の正体へ少しずつ近づいていきます。


次話では、地下海に眠る存在が初めて世界へ干渉を始め、玲司たちの選択が試されることになります。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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