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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第89話 最初の波紋

名を呼ばれる。


それだけで、人は振り返る。


だが——


世界が名を呼ぶとき、振り返ってはいけない。

「玲司。」


その声は、一度しか響かなかった。


地下海は再び静寂に沈む。


玲司は息を止めたまま、水面を見つめ続けていた。


「誰だ。」


返事はない。


波紋だけが、ゆっくりと広がって消える。


その広がり方に違和感があった。


普通なら円を描くはずの波紋が、途中で形を変える。


枝分かれする。


まるで根だった。



アヤは玲司の腕を掴んだ。


「戻ろう。」


玲司は頷きかける。


その時だった。


地下海の壁面から、小さな光が浮かび上がる。


青白い。


菌糸ではない。


文字でもない。


点。


無数の点。


星空のように並んでいる。


「これ……。」


誰かが近づく。


光は逃げない。


むしろ集まっていく。


やがて、一つの形になった。


掌。


人の手だった。


壁の中から、誰かが手を当てている。


向こう側から。


アヤが一歩後ずさる。


「壁の厚さは?」


「十メートル以上。」


「じゃあ……。」


誰も続きを口にしない。


その手は、一度だけ指を動かした。


招くように。


次の瞬間。


光は砕けた。


壁には何も残っていなかった。



AQUA-7。


保管区画。


管理体は古い記録媒体を取り出していた。


電子ではない。


金属板。


表面には細かな傷が刻まれている。


指でなぞる。


一つだけ読める文字があった。


「胎動。」


その下は削られている。


誰かが消した。


いや。


消さなければならなかった。


管理体は目を閉じる。


「榊悠真。」


名前を口にした瞬間、金属板が震えた。


返事はしない。


それでも、その沈黙は知っている者の沈黙だった。



玲司は眠れなかった。


鼓動の空白。


遅れて動く影。


壁の向こうの手。


頭から離れない。


目を閉じる。


暗闇。


その中に、小さな子どもが立っていた。


裸足。


白い服。


顔は見えない。


「また遅れたね。」


子どもが言う。


玲司は知らないはずだった。


それでも、その声を知っていた。


「誰なんだ。」


子どもは答えない。


代わりに海を指差した。


振り向く。


水平線がない。


海は空へ続いていた。


境界が消えている。


その水面に、一つだけ波紋が生まれる。


最初の波紋。


それは外へ広がらなかった。


内側へ沈んだ。


世界が、逆向きに呼吸する。


玲司は飛び起きた。


汗ではない。


頬を濡らしていたのは、冷たい海水だった。



地下海。


誰もいないはずの岸辺。


水面に、新しい足跡が増えていた。


一人分ではない。


二人。


三人。


四人。


すべて裸足。


すべて中央へ向かう。


帰ってきた跡は、一つもなかった。

第89話「最初の波紋」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「呼ばれること」と「招かれること」の違いを静かに描きました。


壁の向こうの手、榊悠真の名に反応する金属板、そして内側へ沈む最初の波紋。


少しずつ、世界が“始まりの日”へ近づいています。


次話では、地下海に残る足跡の主を追うことで、「原初帰還」という章題の意味がさらに深まっていきます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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