第89話 最初の波紋
名を呼ばれる。
それだけで、人は振り返る。
だが——
世界が名を呼ぶとき、振り返ってはいけない。
「玲司。」
その声は、一度しか響かなかった。
地下海は再び静寂に沈む。
玲司は息を止めたまま、水面を見つめ続けていた。
「誰だ。」
返事はない。
波紋だけが、ゆっくりと広がって消える。
その広がり方に違和感があった。
普通なら円を描くはずの波紋が、途中で形を変える。
枝分かれする。
まるで根だった。
◇
アヤは玲司の腕を掴んだ。
「戻ろう。」
玲司は頷きかける。
その時だった。
地下海の壁面から、小さな光が浮かび上がる。
青白い。
菌糸ではない。
文字でもない。
点。
無数の点。
星空のように並んでいる。
「これ……。」
誰かが近づく。
光は逃げない。
むしろ集まっていく。
やがて、一つの形になった。
掌。
人の手だった。
壁の中から、誰かが手を当てている。
向こう側から。
アヤが一歩後ずさる。
「壁の厚さは?」
「十メートル以上。」
「じゃあ……。」
誰も続きを口にしない。
その手は、一度だけ指を動かした。
招くように。
次の瞬間。
光は砕けた。
壁には何も残っていなかった。
◇
AQUA-7。
保管区画。
管理体は古い記録媒体を取り出していた。
電子ではない。
金属板。
表面には細かな傷が刻まれている。
指でなぞる。
一つだけ読める文字があった。
「胎動。」
その下は削られている。
誰かが消した。
いや。
消さなければならなかった。
管理体は目を閉じる。
「榊悠真。」
名前を口にした瞬間、金属板が震えた。
返事はしない。
それでも、その沈黙は知っている者の沈黙だった。
◇
玲司は眠れなかった。
鼓動の空白。
遅れて動く影。
壁の向こうの手。
頭から離れない。
目を閉じる。
暗闇。
その中に、小さな子どもが立っていた。
裸足。
白い服。
顔は見えない。
「また遅れたね。」
子どもが言う。
玲司は知らないはずだった。
それでも、その声を知っていた。
「誰なんだ。」
子どもは答えない。
代わりに海を指差した。
振り向く。
水平線がない。
海は空へ続いていた。
境界が消えている。
その水面に、一つだけ波紋が生まれる。
最初の波紋。
それは外へ広がらなかった。
内側へ沈んだ。
世界が、逆向きに呼吸する。
玲司は飛び起きた。
汗ではない。
頬を濡らしていたのは、冷たい海水だった。
◇
地下海。
誰もいないはずの岸辺。
水面に、新しい足跡が増えていた。
一人分ではない。
二人。
三人。
四人。
すべて裸足。
すべて中央へ向かう。
帰ってきた跡は、一つもなかった。
第89話「最初の波紋」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「呼ばれること」と「招かれること」の違いを静かに描きました。
壁の向こうの手、榊悠真の名に反応する金属板、そして内側へ沈む最初の波紋。
少しずつ、世界が“始まりの日”へ近づいています。
次話では、地下海に残る足跡の主を追うことで、「原初帰還」という章題の意味がさらに深まっていきます。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




