第88話 沈黙の潮汐
海は、満ち引きを繰り返す。
それは月に導かれていると思われてきた。
だが、この海を動かしているものは——
もっと古く、もっと静かな鼓動だった。
夜明けは来た。
それでも空は、夜を忘れたような灰色だった。
玲司は窓辺から離れられなかった。
鳥の声がない。
風が葉を揺らす音もない。
世界から、小さな音だけが抜け落ちていた。
「また聞こえるの?」
背後からアヤが声をかける。
玲司は頷いた。
「鼓動の間に……何かある。」
彼女は答えなかった。
ただ、玲司の胸元を見つめる。
世界樹の種子が消えた場所。
そこだけ服がわずかに湿っていた。
汗ではない。
海水だった。
◇
AQUA-7の外周観測路。
海面は穏やかだった。
穏やかすぎた。
波がない。
潮の流れも止まっている。
観測員の一人が計器を叩いた。
「故障か?」
違う。
数値は正常だった。
潮位だけが、動いていない。
数百年分の記録を照合する。
一致する日があった。
ただ一日だけ。
データ名は消されていた。
記録番号だけが残る。
000001。
「最初の記録……?」
誰も続きを知らない。
◇
管理体は端末を閉じた。
EVEは眠っている。
そのはずだった。
それでも施設全体に、小さな共鳴が広がる。
コン。
コン。
どこか遠くで木を叩く音。
違う。
根だ。
巨大な根が、水中を叩いている。
「始まる。」
管理体の声には感情があった。
「まだ早い。」
返事はない。
だが部屋の照明が、一瞬だけ脈打った。
◇
玲司たちは地下海へ向かった。
誰も指示していない。
それでも足が向かう。
通路の壁に触れる。
白い菌糸が震えた。
まるで歓迎するように。
地下海へ出る。
そこだけ空気が違った。
冷たい。
塩の匂い。
そして。
海面に輪が広がっていた。
誰も触れていない。
それでも波紋だけが生まれている。
一つ。
二つ。
三つ。
玲司は息を呑んだ。
波紋の中心。
そこに足跡があった。
水面の上に。
裸足の跡。
続いている。
岸から中央まで。
そして。
帰ってきていない。
「誰かが歩いた。」
アヤが呟く。
玲司は首を振る。
「違う。」
足跡は新しすぎた。
つい今さっき。
誰かが立っていた。
その瞬間。
水面に映る玲司の姿が遅れて動いた。
一拍。
遅い。
影だけが笑った。
玲司は反射的に後退する。
映像は元に戻る。
誰も何も見ていない。
「今、笑った。」
アヤは玲司を見る。
「……あなたが?」
「違う。」
声が震える。
「俺じゃない。」
◇
地下海の奥。
誰も近づけない暗闇。
そこから泡が浮かぶ。
一つ。
また一つ。
水面で弾ける。
音がしない。
無音の泡。
その数は増えていく。
やがて。
海全体が静かに呼吸を始めた。
吸う。
止まる。
吐く。
その間に。
玲司は確かに聞いた。
「玲司。」
誰の声でもない。
それなのに。
忘れることのできない声だった。
第88話「沈黙の潮汐」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は“世界の音が一つずつ消えていく違和感”を描きました。
止まった潮位、000001という最初の記録、水面に残る足跡、そして遅れて笑う影。
これらはすべて、世界そのものが“ある記憶”へ引き寄せられている兆候です。
次話では、その声の正体が少しだけ輪郭を持ち始めます。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




