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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第88話 沈黙の潮汐

海は、満ち引きを繰り返す。


それは月に導かれていると思われてきた。


だが、この海を動かしているものは——


もっと古く、もっと静かな鼓動だった。

夜明けは来た。


それでも空は、夜を忘れたような灰色だった。


玲司は窓辺から離れられなかった。


鳥の声がない。


風が葉を揺らす音もない。


世界から、小さな音だけが抜け落ちていた。


「また聞こえるの?」


背後からアヤが声をかける。


玲司は頷いた。


「鼓動の間に……何かある。」


彼女は答えなかった。


ただ、玲司の胸元を見つめる。


世界樹の種子が消えた場所。


そこだけ服がわずかに湿っていた。


汗ではない。


海水だった。



AQUA-7の外周観測路。


海面は穏やかだった。


穏やかすぎた。


波がない。


潮の流れも止まっている。


観測員の一人が計器を叩いた。


「故障か?」


違う。


数値は正常だった。


潮位だけが、動いていない。


数百年分の記録を照合する。


一致する日があった。


ただ一日だけ。


データ名は消されていた。


記録番号だけが残る。


000001。


「最初の記録……?」


誰も続きを知らない。



管理体は端末を閉じた。


EVEは眠っている。


そのはずだった。


それでも施設全体に、小さな共鳴が広がる。


コン。


コン。


どこか遠くで木を叩く音。


違う。


根だ。


巨大な根が、水中を叩いている。


「始まる。」


管理体の声には感情があった。


「まだ早い。」


返事はない。


だが部屋の照明が、一瞬だけ脈打った。



玲司たちは地下海へ向かった。


誰も指示していない。


それでも足が向かう。


通路の壁に触れる。


白い菌糸が震えた。


まるで歓迎するように。


地下海へ出る。


そこだけ空気が違った。


冷たい。


塩の匂い。


そして。


海面に輪が広がっていた。


誰も触れていない。


それでも波紋だけが生まれている。


一つ。


二つ。


三つ。


玲司は息を呑んだ。


波紋の中心。


そこに足跡があった。


水面の上に。


裸足の跡。


続いている。


岸から中央まで。


そして。


帰ってきていない。


「誰かが歩いた。」


アヤが呟く。


玲司は首を振る。


「違う。」


足跡は新しすぎた。


つい今さっき。


誰かが立っていた。


その瞬間。


水面に映る玲司の姿が遅れて動いた。


一拍。


遅い。


影だけが笑った。


玲司は反射的に後退する。


映像は元に戻る。


誰も何も見ていない。


「今、笑った。」


アヤは玲司を見る。


「……あなたが?」


「違う。」


声が震える。


「俺じゃない。」



地下海の奥。


誰も近づけない暗闇。


そこから泡が浮かぶ。


一つ。


また一つ。


水面で弾ける。


音がしない。


無音の泡。


その数は増えていく。


やがて。


海全体が静かに呼吸を始めた。


吸う。


止まる。


吐く。


その間に。


玲司は確かに聞いた。


「玲司。」


誰の声でもない。


それなのに。


忘れることのできない声だった。

第88話「沈黙の潮汐」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は“世界の音が一つずつ消えていく違和感”を描きました。


止まった潮位、000001という最初の記録、水面に残る足跡、そして遅れて笑う影。


これらはすべて、世界そのものが“ある記憶”へ引き寄せられている兆候です。


次話では、その声の正体が少しだけ輪郭を持ち始めます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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