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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第86話 世界樹の記憶

樹は、話さない。


それでも。


何千年も立ち続けるものには、

言葉より古い記憶が宿る。


世界は忘れても。


樹だけは、覚えている。

『AWAKENING』


世界樹の幹に刻まれた文字は、淡い蒼色に脈打っていた。


老人は杖を握り直す。


「開け。」


悠真が一歩前へ出る。


「俺が?」


「君しか開けない。」


「どうして。」


老人は静かに笑った。


「鍵だからだ。」


その言葉に、神崎が以前言った言葉が重なる。


――境界は、一人では作れない。


悠真はゆっくり手を伸ばした。


幹へ触れる。


温かい。


木の感触ではない。


誰かの手を握ったような温もりだった。


その瞬間。


【NOAH LINK】


【7.2%】


数字が静かに上昇する。


負荷はない。


痛みもない。


むしろ。


世界樹の鼓動と、自分の鼓動が重なっていく。


――ドクン。


幹に一本の亀裂が走る。


左右へ開く。


そこには暗闇はなかった。


無数の水面。


天井も床もなく。


大小さまざまな水鏡が空間いっぱいに浮かんでいる。


澪が息を呑む。


「鏡……。」


老人は首を横へ振った。


「違う。」


「これは記憶だ。」


悠真が最も近い水面を覗く。


そこには。


雨が降っていた。


見知らぬ町。


泣いている少女。


「知らない。」


次の水面。


若い神崎。


蒼一。


美咲。


三人が笑っている。


さらに次。


黒海。


深海都市。


第41話で見た光景。


悠真は立ち止まる。


「全部、本当にあったこと……。」


老人が頷く。


「世界樹は世界の記憶を保存している。」


「全部?」


「全部ではない。」


老人の表情が少し曇る。


「忘れられたものだけだ。」


その言葉に、悠真は眉を寄せる。


「忘れられたもの?」


「人が忘れた。」


「世界が消した。」


「海が隠した。」


「そういう記憶だけが、ここへ流れ着く。」


澪が一枚の水面を見つめた。


そこには。


一人の女性が赤ん坊を抱いている。


「……。」


美咲だった。


悠真も近づく。


赤ん坊は眠っている。


美咲が静かに微笑む。


『泣かないで。』


誰に向けた言葉なのか。


次の瞬間。


画面の外から誰かが答えた。


『怖いんだ。』


その声は。


蒼一ではなかった。


神崎でもない。


「S.O……。」


悠真が呟く。


女性は頷いたように見えた。


『約束して。』


『この子だけは。』


『海へ返さない。』


映像が揺れる。


そこで切れた。


悠真は息を整えた。


「やっぱり。」


「俺は海へ返されるはずだった。」


老人は訂正した。


「違う。」


悠真が振り返る。


「返されるはずだったんじゃない。」


「迎えに来るはずだった。」


「……誰が?」


老人は答えない。


代わりに。


部屋の中央を指差した。


一番大きな水面。


他の鏡より深い蒼色。


その縁には文字が刻まれている。


『第一記録』


少年が立ち止まる。


「見ちゃ駄目。」


「どうして?」


「まだ早い。」


老人は静かに首を横へ振った。


「いや。」


「もう遅い。」


悠真は水面へ近づいた。


覗き込む。


最初は何も映らない。


やがて。


波紋が広がる。


一つ。


また一つ。


そして。


世界そのものが映った。


海しかない。


陸がない。


空もない。


ただ。


一滴の雫だけが浮かんでいる。


始原の雫だった。


その前に。


二つの影。


人ではない。


輪郭すら曖昧。


二つの存在が。


雫へ何かを語りかけている。


音は聞こえない。


だが。


最後の一言だけ。


はっきり聞こえた。


『境界を作ろう。』


悠真の背筋が凍る。


「これ……。」


老人が答えた。


「世界で最初の約束だ。」


その瞬間。


部屋全体の水面が激しく揺れた。


澪が耳を押さえる。


「何?」


水鏡が一斉に黒く染まる。


一枚。


また一枚。


記憶が消えていく。


老人が叫んだ。


「下がれ!」


遅かった。


第一記録の水面から。


一本の黒い腕が伸びた。


人間の腕だった。


しかし。


指が六本ある。


ゆっくり。


悠真の手首を掴む。


氷のように冷たい。


その瞬間。


頭の中へ、知らない声が流れ込んだ。


『ようやく。』


『記録が、帰ってきた。』


悠真の瞳が見開く。


「……違う。」


澪が叫ぶ。


「悠真!」


黒い腕は離さない。


その指先から。


黒い粒子が悠真の腕を這い始める。


第3章。


黒海で見た粒子。


忘れていた恐怖が蘇る。


老人が杖を振り上げた。


世界樹の枝が部屋へ伸びる。


光の枝が黒い腕へ絡みつく。


「離れろ!」


轟音。


腕が砕ける。


黒い粒子が霧となって散る。


しかし。


消える直前。


その声だけが残った。


『次は。』


『君が思い出す番だ。』


部屋は静寂を取り戻した。


悠真は手首を見る。


黒い痕が残っている。


消えない。


老人がその痕を見つめる。


青い瞳が初めて揺れた。


「……刻印。」


澪が息を呑む。


「何の?」


老人はゆっくり答えた。


「帰還者の印だ。」

第86話をお読みいただき、ありがとうございました。


第5章「原初帰還」は、世界樹の中に眠る「忘れられた記憶」へ踏み込みました。


世界樹が保存しているのは、人が忘れた記憶だけ。


そして「第一記録」で語られた、世界で最初の約束。


『境界を作ろう。』


この言葉は、シリーズ全体の起源へ繋がる重要な伏線です。


しかし、記憶へ触れたことで悠真の手首には「帰還者の印」が刻まれました。


この印が何を意味するのか。


そして黒い腕の正体とは何なのか。


ここから第5章は、「世界の記憶」と「悠真自身の失われた過去」が本格的に交差していきます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いいたします。

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