第103話 もう一人の玲司
鏡に映る自分は、自分ではない。
そんな話は昔からある。
けれど——
鏡の外へ出てきた“もう一人”は、誰の記憶を生きているのだろう。
「遅かった。」
その声は玲司自身だった。
低さも。
息の混じり方も。
何より、アヤの名前を呼ぶ時の癖まで同じだった。
違うのは瞳だけ。
蒼ではない。
深海のような黒。
光を映さない瞳だった。
◇
アヤは玲司の前へ立つ。
反射だった。
考えるより先に身体が動いていた。
「近づかないで。」
青年は困ったように笑う。
「それ、昔も言われた。」
昔。
その一言に玲司の胸が疼く。
ドクン。
蒼い鼓動。
ドクン。
黒い鼓動。
二つはぶつからない。
互いの間隔を知っているようだった。
◇
「お前は誰だ。」
玲司が問う。
青年は少しだけ考える。
「名前を言えば終わる。」
静かな声だった。
「だから、まだ言えない。」
「じゃあ何なんだ。」
青年は墓標へ手を添えた。
「約束。」
その一言だけが、洞窟へ長く残った。
◇
墓標の根が動く。
ゆっくり。
青年の足元へ絡みつく。
拘束ではない。
迎えている。
玲司は息を呑む。
墓標は青年を知っている。
青年も墓標を知っている。
「ここへ何しに来た。」
玲司が一歩前へ出る。
青年は初めて真顔になった。
「迎えに。」
「誰を。」
長い沈黙。
そして。
「置いていかれた人を。」
玲司は理解できない。
それでも。
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
まるで、自分も誰かを置いてきたように。
◇
洞窟の壁へ亀裂が走る。
パキ。
小さな音。
一本。
また一本。
蒼い手形が次々と消えていく。
アヤが振り返る。
「まずい。」
手形が消えるたび。
誰かの囁きが消える。
子どもの笑い声。
風の音。
波の音。
世界が少しずつ無音になっていく。
青年が空を見上げる。
「時間切れだ。」
「何の。」
玲司が叫ぶ。
青年は答えない。
代わりに玲司の胸を指差した。
「やっと返ってきた。」
「でも、まだ足りない。」
◇
AQUA-7。
警報。
赤い照明。
ROOT NETWORK 暴走。
管理体は端末を叩く。
止まらない。
世界樹の根が施設中へ伸び始めていた。
壁を這う。
床を割る。
天井から垂れる。
生き物のようだった。
EVEは眠ったまま涙を流し続けている。
その涙が床へ落ちる。
落ちた場所から。
小さな白い花が咲いた。
管理体は息を呑む。
その花を知っていた。
「……潮忘れ。」
誰にも教えていない名前。
それでも口からこぼれた。
◇
墓標の前。
青年が初めて玲司へ近づく。
逃げない。
止めない。
二人の距離が一歩になる。
青年は囁く。
「空白の鼓動。」
玲司の瞳が揺れる。
「覚えてる?」
その問いに答えられない。
青年は寂しそうに笑う。
「そうだよね。」
そして。
玲司の胸へ、指一本だけ触れた。
冷たい。
その瞬間。
空白だった鼓動の記憶が、一瞬だけ戻る。
幼い玲司。
海辺。
誰かと指切りをしている。
『絶対に忘れない。』
その約束の相手だけが、真っ白だった。
記憶は途切れる。
玲司は膝をつく。
涙が落ちる。
理由が分からない。
青年は背を向ける。
歩き出す。
墓標の向こうへ。
消える寸前。
振り返らずに言った。
「次は。」
「君が俺を思い出す番だ。」
その姿は、墓標の蒼い光へ溶けていった。
青年が消えた瞬間。
墓標へ刻まれていた《玲司》の文字も、一緒に消えた。
第103話「もう一人の玲司」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、第89話から伏線として積み重ねてきた“もう一人の玲司”が初めて対話する回になりました。
重要なのは、彼が敵でも味方でもなく、「約束」そのものを名乗ったことです。
また、AQUA-7では「潮忘れ」という白い花が咲き、EVEと世界樹の繋がりにも新たな伏線が生まれました。
【進行報告】
・現在:第5章「原初帰還」第103話
・残り7話で第5章完結
・第104話では、榊悠真が封印した“最後の観測室”へ物語が移ります。
ここから第110話まで、一話ごとに核心へ近づきながら映画のような加速で進めていきます。




