第104話 最後の観測室
墓は、死者のために作られる。
そう教えられてきた。
けれど——
世界で最初の墓は、生者が二度と忘れないために建てられた。
AQUA-7の最深部。
使われていないはずの扉が、ひとりでに開いた。
管理体は足を止める。
扉の上には、古い文字。
《OBSERVATION ROOM 00》
数字だけが異様に鮮明だった。
「ゼロ……。」
誰にも聞かれない声で呟く。
一歩。
また一歩。
奥へ進む。
◇
部屋の中央に、古い観測装置があった。
画面は消えている。
電源も繋がっていない。
それなのに。
一つだけ赤いランプが点滅していた。
点。
消える。
点。
消える。
管理体は机の上へ手を置く。
指先が震えた。
「ここは閉鎖したはずだ。」
背後。
何もない。
それでも。
椅子が一脚だけ引かれた。
誰かが座るように。
管理体は座らない。
その代わり、画面へ近づく。
突然。
画面が点いた。
◇
《観測対象:地球》
《観測開始:記録不能》
《最初の生命:記録不能》
《最初の意識:記録不能》
《最初の名前:――》
そこで画面が止まる。
管理体の顔から血の気が引く。
「最初の名前……。」
その文字の下に。
一つだけ新しい項目が追加された。
《観測対象:玲司》
管理体は息を止める。
「どうして今……。」
画面が切り替わる。
映し出されたのは。
海だった。
名のない海。
ASTRAEA号。
そして、その甲板に立つ玲司とアヤ。
映像は今この瞬間を映している。
管理体は理解した。
ここは過去を記録する場所ではない。
未来を観測している。
◇
名のない海。
玲司は目の前に立つ青年を見つめていた。
姿はもうない。
それでも声だけが残っている。
『次は、君が俺を思い出す番だ。』
「……何なんだよ。」
誰に言うでもなく呟く。
アヤが隣へ立つ。
「分からなくてもいい。」
玲司は顔を上げる。
「いいのか?」
「うん。」
アヤは静かに笑った。
「でも、一人で抱えないで。」
その言葉に。
玲司は少しだけ救われた気がした。
◇
ASTRAEAの船底。
再び。
コン。
コン。
コン。
玲司とアヤが同時に振り向く。
三回。
しばらく沈黙。
二回。
そして。
一回。
玲司の顔色が変わる。
「これ……。」
アヤが聞く。
「知ってるの?」
「昔、悠真と使ってた。」
「何の合図?」
玲司は答えられない。
記憶がない。
ただ。
身体だけが知っている。
玲司は船底へ指で同じ音を返した。
三回。
二回。
一回。
静寂。
そして。
返事。
三回。
二回。
一回。
アヤが息を呑む。
「向こうに誰かいる。」
玲司は首を横に振る。
「人じゃない。」
◇
船底の板がゆっくり割れる。
その隙間から蒼い光が漏れる。
階段。
今まで存在しなかった。
地下へ続いている。
アヤが玲司を見る。
「行く?」
玲司は迷う。
ほんの一瞬だけ。
それでも。
一人ではないことを確かめるように、彼女の手を握る。
「行こう。」
二人は階段を下りる。
一段。
二段。
三段。
海の音が遠くなる。
代わりに。
誰かの寝息が聞こえた。
◇
階段の終点。
小さな部屋。
中央に椅子が一つ。
その上に。
白い布が掛けられている。
玲司が近づく。
布へ手を伸ばす。
止まる。
なぜか怖い。
アヤが背中へ手を添える。
「大丈夫。」
玲司は頷く。
布を取る。
そこにあったのは。
人形だった。
古い。
小さな人形。
胸の中央に蒼い石が埋め込まれている。
その石を見た瞬間。
玲司の視界が崩れる。
◇
海辺。
幼い玲司。
そして。
隣に立つ誰か。
手を繋いでいる。
顔はまだ見えない。
でも声だけは聞こえる。
『忘れないでね。』
幼い玲司が笑う。
『うん。』
『どんなに世界が変わっても?』
『うん。』
指切り。
小さな約束。
その直後。
幼い玲司はもう一度だけ言う。
『名前は?』
隣の誰かが答える。
その瞬間。
世界が真っ暗になる。
名前だけが聞こえない。
◇
現実。
玲司は人形を抱えていた。
頬に涙が流れている。
「……なんで。」
アヤは何も聞かなかった。
ただ隣に立つ。
その時。
人形の胸の蒼い石が光る。
小さな音声が流れた。
ノイズ。
そして。
榊悠真の声。
『玲司。』
玲司の身体が固まる。
『もし、この記録が再生されたなら——』
一瞬の沈黙。
『俺は、もういない。』
それでも悠真の声は穏やかだった。
『だから、最後に一つだけ伝える。』
ノイズが増える。
『お前が探しているのは、過去じゃない。』
『お前自身の中にある——』
そこで音声が途切れる。
玲司は息を呑む。
人形の胸の石が割れる。
中から小さな紙片が落ちる。
開く。
そこには。
一つの名前だけが書かれていた。
玲司が読む。
声にはならなかった。
その瞬間。
海の向こうで。
世界樹が大きく揺れた。
第102話「世界最初の墓標」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、頭蓋骨の島の正体が「世界最初の墓」であること、そして榊悠真と水城澪が交わした“名前を刻まない約束”を描きました。
ラストで現れたのは、子どもではなく玲司と同じ顔を持つ青年。
第89話から続いていた“もう一人の玲司”が、ついに姿を持って現れました。
【進行報告】
・現在:第5章「原初帰還」第102話
・残り8話で第5章完結
・第110話は映画一本分のクライマックスとして設計しています。
次話では、「もう一人の玲司」が初めて自らの意思で語り始めます。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




