第101話 海が忘れた約束
約束は、人が交わすものだ。
だが——
世界そのものが交わした約束を、人は覚えていられない。
「同じ鼓動になったね。」
子どもの微笑みは、どこか嬉しそうだった。
玲司は一歩踏み出す。
その瞬間。
子どもの姿が波紋のように揺れた。
消える。
違う。
薄くなった。
海そのものへ溶け込んでいく。
「待って!」
玲司が手を伸ばく。
指先は届かない。
代わりに。
胸の蒼い紋様が熱を帯びた。
ドクン。
ドクン。
もう空白はない。
二つの鼓動が、完全に重なっている。
◇
名のない海の空が曇る。
雲ではない。
無数の白い鳥だった。
いや。
鳥に見えた。
近づく。
翼がない。
羽がない。
白い紙。
一枚一枚が空を舞っている。
紙は海へ降りる。
濡れない。
水面へ触れるたび、文字が浮かぶ。
《約束》
《帰還》
《忘却》
そして最後の紙。
玲司の足元へ落ちた。
拾う。
そこには一文だけ。
《海が忘れた約束を返して》
その文字は、玲司が読み終える前に消えた。
◇
ASTRAEA号。
船がゆっくり揺れる。
初めて潮流を感じた。
船が進んでいる。
誰も舵を握っていない。
それでも進路だけは迷わない。
アヤが甲板へ出る。
遠くを見つめる。
「島。」
玲司も視線を向ける。
水平線の先。
小さな影。
近づく。
島ではなかった。
巨大な頭蓋骨だった。
山ほど大きい。
海から半分だけ顔を出している。
眼窩には蒼い光。
眠っている。
玲司は息を呑む。
「あれ、生きてる。」
返事をするように。
頭蓋骨の片目だけが、ゆっくり開いた。
◇
AQUA-7。
EVEは目を閉じていた。
さっき開いた瞳は、再び眠っている。
だが違う。
眠っているのではない。
聞いている。
管理体は気づく。
施設中のマイクが勝手に起動している。
誰も操作していない。
スピーカーから、小さな音が流れる。
波。
風。
子どもの笑い声。
そして。
玲司の鼓動。
「同期してる。」
管理体の声が震える。
EVEは玲司のいる海を聞いている。
距離など存在しないように。
◇
ASTRAEA号の船底から音がした。
コン。
コン。
誰かが内側から叩いている。
アヤが身構える。
玲司は耳を澄ます。
規則的だった。
三回。
止まる。
二回。
また三回。
どこかで聞いた。
違う。
身体が知っている。
玲司は床を叩く。
同じリズムで。
すると。
音が止まった。
長い沈黙。
そのあと。
船底から、小さな声。
「まだ。」
誰の声か分からない。
子どもでもない。
EVEでもない。
榊悠真でもない。
「まだ開けない。」
その一言で船全体が震えた。
◇
頭蓋骨の島が近づく。
海面に無数の泡が浮かぶ。
静かに。
一つずつ。
弾ける。
音はしない。
だが玲司の胸だけが反応する。
泡の一つへ目を向ける。
その中に。
幼い日の自分が映っていた。
笑っている。
その隣に。
誰かがいる。
顔だけが見えない。
その人物が玲司へ手を伸ばす。
そして。
泡が弾けた。
同時に。
頭蓋骨の巨大な口が、ゆっくり開き始める。
海そのものが。
息を吸った。
第101話「海が忘れた約束」を読んでいただき、ありがとうございます。
ここから第5章はクライマックスへ向けて、一気に加速していきます。
今回は「海が忘れた約束」という新たな核となる謎と、ASTRAEA号が向かう“頭蓋骨の島”を描きました。
特に、船底から聞こえた「まだ開けない」という声は、第1話から続く“開いてはいけないもの”へ繋がる重要な伏線です。
【進行報告】
・現在:第5章「原初帰還」第101話
・第110話で第5章完結予定
・第111話から新章「第6章 忘却深層」へ突入予定
次話では、頭蓋骨の島へ上陸し、世界で最も古い“墓標”が姿を現します。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




