第100話 二つ目の鼓動
鼓動が一つなら、それは生命だ。
二つなら——
そこには、もう一つの意思がある。
そしてその二つが同じ時を刻み始めたとき、
世界は静かに選択を始める。
ドクン。
玲司の胸が鳴った。
その直後。
ドクン。
地下深くから、もう一つの鼓動が返ってきた。
船長室の空気が震える。
壁。
床。
天井。
すべてが、ごく僅かに脈動していた。
アヤが玲司の腕を掴む。
「今の……聞いた?」
「うん。」
玲司は答える。
「俺じゃない。」
二人は同時に船窓を見る。
名のない海は静かなままだった。
波もない。
風もない。
それなのに、遠くの水面だけがゆっくり持ち上がっていく。
まるで。
海の下で誰かが立ち上がろうとしているように。
◇
机の上。
榊悠真の私記がひとりでに開いた。
最後のページ。
さっきまで何もなかった場所に、文字が浮かぶ。
一文字。
また一文字。
《二つ目を探すな》
玲司の目が止まる。
アヤが続けて読む。
「《二つ目は、お前を探している》……。」
文字はそこで止まった。
玲司は黙る。
胸の紋様が熱い。
ドクン。
ドクン。
さっきまで不規則だった空白が消えている。
一拍。
二拍。
また一拍。
初めて、自分の鼓動が普通に続いている。
その代わり。
海の底から返ってくる鼓動も、同じ速度になっていた。
◇
突然。
船長室の壁が青く光る。
そこへ古い映像が浮かび上がった。
榊悠真。
水城澪。
そして、見覚えのない少女。
三人は黒い海の前に立っている。
澪が言う。
「二つを近づけたら、戻れなくなる。」
悠真は答えない。
少女だけが玲司のいる方向を見ていた。
まだ生まれていないはずの未来を見ているような目だった。
そして。
少女が一言だけ呟く。
「この人が、最後まで忘れなければ。」
映像が止まる。
玲司は息を呑んだ。
「この人って……。」
映像の中の少女が、ゆっくりこちらを指差した。
玲司。
アヤが顔を強張らせる。
「待って。」
玲司も気づく。
少女が指差しているのは。
自分ではない。
自分の後ろだった。
◇
振り返る。
誰もいない。
ただ。
船長室の扉だけが開いている。
その向こう。
廊下の暗闇に、誰かが立っていた。
白い服。
裸足。
子ども。
第89話から何度も現れていた姿。
今度だけは。
逃げなかった。
玲司を見つめている。
その顔は、やはり思い出せない。
けれど玲司には分かった。
この子は、自分を知っている。
「君は……誰なんだ。」
子どもは首を横に振る。
そして自分の胸へ手を当てた。
そこに何かがあるように。
次に玲司の胸を指す。
同じ場所。
その直後。
子どもの胸から、黒い光が漏れた。
玲司の胸からは、蒼い光。
二つの光が向かい合う。
触れない。
ただ。
互いを認識した。
◇
ドクン。
黒い光が鳴る。
ドクン。
蒼い光が返す。
世界樹と黒い樹。
二本の樹が、名のない海の向こうで同時に揺れた。
海面に巨大な円が広がる。
初めて。
波紋が外へ向かって進んだ。
世界へ。
その瞬間、遠く離れたAQUA-7でも同じ現象が起こる。
EVEのカプセルが揺れる。
眠っていた少女の目が開く。
完全に。
初めて。
その瞳は蒼く輝いていた。
管理体が息を呑む。
「EVE……?」
少女はゆっくり口を開く。
声は小さい。
それでも。
施設全体へ届いた。
「まだ……起こさないで。」
管理体が凍る。
「誰を?」
EVEは答える。
ただ。
涙を一滴だけ流した。
そして。
遠くを見るように呟く。
「帰ってきたから。」
◇
名のない海。
玲司は子どもを見つめる。
一歩。
子どもが近づく。
そして。
初めて笑った。
「やっと。」
その声は、どこか懐かしかった。
「同じ鼓動になったね。」
その瞬間。
玲司の中で、何かが目を覚ました。
第100話「二つ目の鼓動」を読んでいただき、ありがとうございます。
第5章「原初帰還」も、ついに第100話へ到達しました。
今回は、これまで繰り返し描いてきた「空白の鼓動」が一つの転換点を迎えました。
玲司の中にある蒼い鼓動。
そして、それに応える二つ目の鼓動。
さらに、世界樹と対を成す黒い樹、玲司を見続けていた子ども、そして初めて目を開けたEVE。
まだ正体も目的も明かしていません。
ただ一つ確かなのは、今まで別々に見えていた出来事が、同じ場所へ向かい始めたということです。
第101話からは、「二つの鼓動」が何を意味するのかを、少しずつ掘り下げていきます。
『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』は、ここからさらに深い場所へ進みます。




