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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第99話 船長室の最後の一行

記録は事実を残すためにある。


そう思っていた。


けれど本当に大切なことほど、


最後の一行だけが書けなくなる。

《船長室》


真鍮のプレートは冷たかった。


玲司が取っ手へ触れる。


抵抗はない。


静かに扉が開く。


軋みさえしなかった。



部屋は驚くほど整っていた。


机。


本棚。


海図。


壁掛け時計。


時計だけが動いている。


秒針は進む。


だが。


六十で止まる。


そして一へ戻る。


時間が一分を越えられない。


アヤが時計を見つめる。


「ここだけ時間が閉じ込められてる。」


玲司は返事をしなかった。


机の向こうに視線を奪われていた。


椅子が引かれている。


誰かが今まで座っていたように。



机の上。


万年筆。


乾いていないインク。


紙。


そして一冊の手帳。


航海日誌とは違う。


表紙の裏に、小さな文字。


《榊悠真 私記》


玲司の指先が止まる。


私記。


誰にも見せるつもりのない記録。


ゆっくり開く。


最初のページ。


『もし、この本を玲司が読んでいるなら。』


玲司の呼吸が止まる。


アヤも言葉を失う。


悠真は。


最初から玲司を知っていた。



ページをめくる。


文字は穏やかだった。


研究の話。


澪のこと。


海の異変。


失敗。


後悔。


そのどれもが、人間の言葉だった。


英雄ではない。


一人の人間が書いた記録だった。


玲司は小さく呟く。


「悠真……。」


その時。


ページが勝手に進む。


風は吹いていない。


それでも紙だけがめくられる。


最後の記録。


そこだけ文字が乱れていた。


『世界樹は記憶を保存する。』


『地下海は記憶を還す。』


『EVEは——』


そこで途切れている。


次の一行だけ。


何度も書き直した跡があった。


削る。


書く。


消す。


また書く。


最後には紙そのものが薄くなっていた。


書けなかった。


いや。


書かなかった。



玲司は万年筆へ手を伸ばす。


握る。


温かい。


その瞬間。


視界が重なる。


榊悠真がここにいる。


同じ椅子。


同じ机。


同じ万年筆。


彼は震えていた。


「書けば終わる。」


澪が静かに立っている。


「書かなければ。」


悠真は笑う。


「誰かが続きを書ける。」


彼は万年筆を置いた。


そして初めて。


玲司を見た。


今度ははっきりと。


「頼む。」


それだけ言って。


姿が消えた。



玲司は現実へ戻る。


手の中の万年筆から、一滴だけインクが落ちる。


紙へ染みる。


その染みは文字になった。


《続きを》


アヤが息を呑む。


「勝手に……。」


玲司はゆっくり頷く。


「違う。」


「悠真は俺に書かせようとしてる。」


その瞬間。


船全体が大きく揺れた。


初めてだった。


今まで止まっていた船が。


ゆっくり。


本当にゆっくりと。


動き始める。



船窓の外。


名のない海。


水平線の向こうに。


一本の巨大な樹が見えた。


世界樹だった。


しかし。


その根元には、もう一本。


黒い樹が立っていた。


蒼い樹と向かい合うように。


今まで存在しなかった。


玲司は胸の紋様を押さえる。


一拍。


沈黙。


一拍。


空白の鼓動の中で。


初めて、もう一つの鼓動が鳴った。

第99話「船長室の最後の一行」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は榊悠真の「私記」と、彼自身にも書けなかった最後の一行を描きました。


英雄ではなく、一人の人間として迷い続けた悠真。


だからこそ彼は、未来へ「続きを」と託しました。


そして物語は第100話へ。


世界樹と向かい合う黒い樹、二つ目の鼓動。


ここから『原初帰還』は、新たな段階へ踏み込みます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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