第99話 船長室の最後の一行
記録は事実を残すためにある。
そう思っていた。
けれど本当に大切なことほど、
最後の一行だけが書けなくなる。
《船長室》
真鍮のプレートは冷たかった。
玲司が取っ手へ触れる。
抵抗はない。
静かに扉が開く。
軋みさえしなかった。
◇
部屋は驚くほど整っていた。
机。
本棚。
海図。
壁掛け時計。
時計だけが動いている。
秒針は進む。
だが。
六十で止まる。
そして一へ戻る。
時間が一分を越えられない。
アヤが時計を見つめる。
「ここだけ時間が閉じ込められてる。」
玲司は返事をしなかった。
机の向こうに視線を奪われていた。
椅子が引かれている。
誰かが今まで座っていたように。
◇
机の上。
万年筆。
乾いていないインク。
紙。
そして一冊の手帳。
航海日誌とは違う。
表紙の裏に、小さな文字。
《榊悠真 私記》
玲司の指先が止まる。
私記。
誰にも見せるつもりのない記録。
ゆっくり開く。
最初のページ。
『もし、この本を玲司が読んでいるなら。』
玲司の呼吸が止まる。
アヤも言葉を失う。
悠真は。
最初から玲司を知っていた。
◇
ページをめくる。
文字は穏やかだった。
研究の話。
澪のこと。
海の異変。
失敗。
後悔。
そのどれもが、人間の言葉だった。
英雄ではない。
一人の人間が書いた記録だった。
玲司は小さく呟く。
「悠真……。」
その時。
ページが勝手に進む。
風は吹いていない。
それでも紙だけがめくられる。
最後の記録。
そこだけ文字が乱れていた。
『世界樹は記憶を保存する。』
『地下海は記憶を還す。』
『EVEは——』
そこで途切れている。
次の一行だけ。
何度も書き直した跡があった。
削る。
書く。
消す。
また書く。
最後には紙そのものが薄くなっていた。
書けなかった。
いや。
書かなかった。
◇
玲司は万年筆へ手を伸ばす。
握る。
温かい。
その瞬間。
視界が重なる。
榊悠真がここにいる。
同じ椅子。
同じ机。
同じ万年筆。
彼は震えていた。
「書けば終わる。」
澪が静かに立っている。
「書かなければ。」
悠真は笑う。
「誰かが続きを書ける。」
彼は万年筆を置いた。
そして初めて。
玲司を見た。
今度ははっきりと。
「頼む。」
それだけ言って。
姿が消えた。
◇
玲司は現実へ戻る。
手の中の万年筆から、一滴だけインクが落ちる。
紙へ染みる。
その染みは文字になった。
《続きを》
アヤが息を呑む。
「勝手に……。」
玲司はゆっくり頷く。
「違う。」
「悠真は俺に書かせようとしてる。」
その瞬間。
船全体が大きく揺れた。
初めてだった。
今まで止まっていた船が。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
動き始める。
◇
船窓の外。
名のない海。
水平線の向こうに。
一本の巨大な樹が見えた。
世界樹だった。
しかし。
その根元には、もう一本。
黒い樹が立っていた。
蒼い樹と向かい合うように。
今まで存在しなかった。
玲司は胸の紋様を押さえる。
一拍。
沈黙。
一拍。
空白の鼓動の中で。
初めて、もう一つの鼓動が鳴った。
第99話「船長室の最後の一行」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は榊悠真の「私記」と、彼自身にも書けなかった最後の一行を描きました。
英雄ではなく、一人の人間として迷い続けた悠真。
だからこそ彼は、未来へ「続きを」と託しました。
そして物語は第100話へ。
世界樹と向かい合う黒い樹、二つ目の鼓動。
ここから『原初帰還』は、新たな段階へ踏み込みます。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




