第98話 最初の航海日誌
船は人を運ぶ。
けれど、この船が運んでいたのは——
人ではなく、「忘れてはいけないもの」だった。
ASTRAEA。
その名が船首に浮かび上がった瞬間、軋んでいた扉がゆっくりと開き切った。
中は暗い。
潮の匂い。
湿った木材。
誰も住んでいないはずなのに、どこか温もりが残っている。
「……行こう。」
玲司が一歩踏み込む。
アヤも続いた。
扉は音もなく閉じた。
振り返っても、隙間から海は見えなかった。
外と切り離された。
そんな感覚だけが残る。
◇
船内は思ったより広かった。
通路の両側に小さな部屋が並ぶ。
扉はどれも半開き。
中には机。
椅子。
濡れていない紙。
時間だけが、ここでは止まっていた。
アヤが机へ近づく。
一枚の写真立て。
写真だけが白い。
人の姿だけが消えている。
背景には海。
その海だけは鮮明だった。
◇
玲司は奥の部屋で、一冊の本を見つける。
革張り。
金具は錆びている。
表紙には何も書かれていない。
開く。
最初のページ。
『航海日誌』
その下。
『第一日目』
文字は途中で途切れていた。
ページをめくる。
二日目。
三日目。
四日目。
日付がない。
時間だけが積み重なっている。
そして。
あるページだけ、文字が異なっていた。
インクではない。
蒼い光で書かれている。
玲司は息を呑んだ。
そこには短く記されていた。
《海が私たちを思い出した》
それだけだった。
◇
ページへ指が触れる。
世界が揺れる。
船が動き出す。
現実ではない。
記憶だった。
甲板。
榊悠真が立っている。
若い。
その隣に水城澪。
風が吹く。
澪が海を見つめたまま言う。
「もう始まってる。」
悠真は笑わない。
「知ってる。」
「だから記録する。」
彼は日誌へ何かを書き込む。
玲司は覗き込む。
読めない。
文字だけが滲んでいる。
悠真はふと顔を上げた。
遠くを見る。
玲司ではない。
もっと未来を見るように。
「読んでくれる人がいる。」
その声だけが残った。
◇
視界が戻る。
玲司は本を抱えたまま立っていた。
アヤが心配そうに覗き込む。
「また見た?」
「うん。」
玲司は本を閉じる。
閉じたはずなのに。
中からページをめくる音が続いている。
パラ。
パラ。
パラ。
誰も触っていない。
◇
通路の奥から足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
ゆっくり近づく。
玲司は息を潜める。
アヤが照明を向ける。
誰もいない。
足音だけが通り過ぎる。
二人の間を。
そして。
最後に、小さな子どもの声。
「まだ一ページ目だよ。」
玲司は振り返る。
通路の先。
一瞬だけ、小さな背中が見えた。
白い服。
裸足。
扉の向こうへ消える。
◇
その扉には、古い真鍮のプレートが掛かっていた。
文字を指でなぞる。
錆が剥がれる。
浮かび上がった文字。
《船長室》
玲司が取っ手へ手を伸ばす。
その瞬間。
航海日誌が、ひとりでに最後のページを開いた。
そこだけ紙が新しかった。
まるで、まだ書き終わっていないように。
ページの中央へ、一文字ずつ蒼い光が浮かぶ。
《次は——君が書く》
第98話「最初の航海日誌」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回はASTRAEAの船内で、「海が私たちを思い出した」という航海日誌の一文と、まだ書き終わっていない最後のページを描きました。
榊悠真が未来へ残した記録は、読むためのものではなく、受け継ぐためのものだったのかもしれません。
次話では、船長室の扉が開き、玲司は榊悠真が最後に残した“書きかけの記録”と向き合うことになります。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




