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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第98話 最初の航海日誌

船は人を運ぶ。


けれど、この船が運んでいたのは——


人ではなく、「忘れてはいけないもの」だった。

ASTRAEA。


その名が船首に浮かび上がった瞬間、軋んでいた扉がゆっくりと開き切った。


中は暗い。


潮の匂い。


湿った木材。


誰も住んでいないはずなのに、どこか温もりが残っている。


「……行こう。」


玲司が一歩踏み込む。


アヤも続いた。


扉は音もなく閉じた。


振り返っても、隙間から海は見えなかった。


外と切り離された。


そんな感覚だけが残る。



船内は思ったより広かった。


通路の両側に小さな部屋が並ぶ。


扉はどれも半開き。


中には机。


椅子。


濡れていない紙。


時間だけが、ここでは止まっていた。


アヤが机へ近づく。


一枚の写真立て。


写真だけが白い。


人の姿だけが消えている。


背景には海。


その海だけは鮮明だった。



玲司は奥の部屋で、一冊の本を見つける。


革張り。


金具は錆びている。


表紙には何も書かれていない。


開く。


最初のページ。


『航海日誌』


その下。


『第一日目』


文字は途中で途切れていた。


ページをめくる。


二日目。


三日目。


四日目。


日付がない。


時間だけが積み重なっている。


そして。


あるページだけ、文字が異なっていた。


インクではない。


蒼い光で書かれている。


玲司は息を呑んだ。


そこには短く記されていた。


《海が私たちを思い出した》


それだけだった。



ページへ指が触れる。


世界が揺れる。


船が動き出す。


現実ではない。


記憶だった。


甲板。


榊悠真が立っている。


若い。


その隣に水城澪。


風が吹く。


澪が海を見つめたまま言う。


「もう始まってる。」


悠真は笑わない。


「知ってる。」


「だから記録する。」


彼は日誌へ何かを書き込む。


玲司は覗き込む。


読めない。


文字だけが滲んでいる。


悠真はふと顔を上げた。


遠くを見る。


玲司ではない。


もっと未来を見るように。


「読んでくれる人がいる。」


その声だけが残った。



視界が戻る。


玲司は本を抱えたまま立っていた。


アヤが心配そうに覗き込む。


「また見た?」


「うん。」


玲司は本を閉じる。


閉じたはずなのに。


中からページをめくる音が続いている。


パラ。


パラ。


パラ。


誰も触っていない。



通路の奥から足音が聞こえた。


コツ。


コツ。


ゆっくり近づく。


玲司は息を潜める。


アヤが照明を向ける。


誰もいない。


足音だけが通り過ぎる。


二人の間を。


そして。


最後に、小さな子どもの声。


「まだ一ページ目だよ。」


玲司は振り返る。


通路の先。


一瞬だけ、小さな背中が見えた。


白い服。


裸足。


扉の向こうへ消える。



その扉には、古い真鍮のプレートが掛かっていた。


文字を指でなぞる。


錆が剥がれる。


浮かび上がった文字。


《船長室》


玲司が取っ手へ手を伸ばす。


その瞬間。


航海日誌が、ひとりでに最後のページを開いた。


そこだけ紙が新しかった。


まるで、まだ書き終わっていないように。


ページの中央へ、一文字ずつ蒼い光が浮かぶ。


《次は——君が書く》

第98話「最初の航海日誌」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回はASTRAEAの船内で、「海が私たちを思い出した」という航海日誌の一文と、まだ書き終わっていない最後のページを描きました。


榊悠真が未来へ残した記録は、読むためのものではなく、受け継ぐためのものだったのかもしれません。


次話では、船長室の扉が開き、玲司は榊悠真が最後に残した“書きかけの記録”と向き合うことになります。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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