第97話 忘却の岸
忘れることは失うことではない。
本当に恐ろしいのは——
忘れていたものが、先にこちらを思い出すことだ。
海の底から聞こえた声は、一度きりだった。
「玲司。」
波は静かだった。
それでも、その一言だけが砂浜へ残り続ける。
玲司は水際へしゃがみ込んだ。
水面は鏡のまま。
もう子どもの姿は映っていない。
映るのは自分とアヤだけ。
そう思った瞬間。
鏡の玲司だけが口を開いた。
『遅かったな。』
玲司は息を呑む。
現実の自分は何も話していない。
鏡の中の玲司は静かに微笑んだ。
その笑顔は、自分より少し年上に見えた。
瞬きをする。
鏡は元へ戻っていた。
◇
アヤは砂浜を歩きながら、小さな石を拾う。
丸い石。
濡れている。
不思議だった。
この海には波が寄せない。
なのに石だけが濡れている。
手のひらへ乗せる。
石が温かい。
「玲司。」
彼女は石を差し出した。
表面に細い線が浮かぶ。
最初は傷だと思った。
違う。
文字だった。
《澪》
その一文字だけ。
次の瞬間、文字は消えた。
アヤは石を握りしめる。
「今……。」
「見えた。」
二人とも同じものを見ていた。
◇
岸辺の先。
霧がゆっくり割れる。
一本の桟橋が現れた。
古い木造。
海へ真っ直ぐ伸びている。
先端が見えない。
玲司は立ち止まる。
既視感。
ここを歩いたことがある。
そんなはずはない。
それでも身体だけが覚えている。
「行く。」
アヤは何も言わず頷いた。
二人で歩き始める。
足音が響く。
コツ。
コツ。
三つ目の足音が混じる。
振り向く。
誰もいない。
それでも足音だけは増え続けた。
◇
桟橋の途中。
木の板が一枚だけ色を変えていた。
蒼い。
玲司が足を乗せる。
視界が揺れる。
一瞬だけ世界が反転した。
上に海。
下に空。
その逆転した世界で、水城澪が立っていた。
白衣ではない。
濡れた服。
彼女は玲司を見つめる。
「ここまで来たの。」
玲司は叫ぶ。
「澪!」
彼女は首を振った。
「名前を呼ばないで。」
その言葉で景色が砕ける。
現実へ戻る。
玲司は桟橋に膝をついていた。
アヤが肩を支える。
「今、誰かいた。」
玲司は頷く。
「澪だった。」
「でも……呼んじゃいけなかった。」
その理由だけが、胸へ刺さったまま残る。
◇
AQUA-7。
EVEのカプセル内部。
眠る少女の頬を、一筋の涙が伝う。
目は閉じたまま。
涙だけが流れる。
管理体は記録を確認する。
感情反応。
夢想活動。
同期率。
すべて上昇している。
その時。
カプセルの内壁へ、小さな文字が浮かんだ。
内側から。
《忘れないで》
管理体は手を伸ばす。
触れた瞬間。
文字は水滴になって消えた。
◇
桟橋の終点。
そこには船があった。
朽ちている。
帆がない。
鎖もない。
それなのに波に流されない。
船首へ刻まれた文字。
かすれて読めない。
玲司が近づく。
指先で汚れを払う。
浮かび上がった名を見て、呼吸が止まった。
《ASTRAEA》
その瞬間。
船の中から、小さな子どもの笑い声が聞こえた。
ゆっくり。
軋む音。
誰も触れていない扉が、内側から開き始める。
暗い船内の奥で。
誰かが静かに立ち上がった。
第97話「忘却の岸」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「名前を呼ぶこと」の危うさをさらに深く描きました。
水城澪が繰り返した「名前を呼ばないで」という警告、EVEが残した「忘れないで」という言葉、そしてASTRAEAの名を持つ朽ちた船。
ここから物語は、榊悠真たちが残した“最後の航路”へ踏み込んでいきます。
次話では、船内で玲司たちが“世界で最も古い航海日誌”を目にすることになります。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




