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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第97話 忘却の岸

忘れることは失うことではない。


本当に恐ろしいのは——


忘れていたものが、先にこちらを思い出すことだ。

海の底から聞こえた声は、一度きりだった。


「玲司。」


波は静かだった。


それでも、その一言だけが砂浜へ残り続ける。


玲司は水際へしゃがみ込んだ。


水面は鏡のまま。


もう子どもの姿は映っていない。


映るのは自分とアヤだけ。


そう思った瞬間。


鏡の玲司だけが口を開いた。


『遅かったな。』


玲司は息を呑む。


現実の自分は何も話していない。


鏡の中の玲司は静かに微笑んだ。


その笑顔は、自分より少し年上に見えた。


瞬きをする。


鏡は元へ戻っていた。



アヤは砂浜を歩きながら、小さな石を拾う。


丸い石。


濡れている。


不思議だった。


この海には波が寄せない。


なのに石だけが濡れている。


手のひらへ乗せる。


石が温かい。


「玲司。」


彼女は石を差し出した。


表面に細い線が浮かぶ。


最初は傷だと思った。


違う。


文字だった。


《澪》


その一文字だけ。


次の瞬間、文字は消えた。


アヤは石を握りしめる。


「今……。」


「見えた。」


二人とも同じものを見ていた。



岸辺の先。


霧がゆっくり割れる。


一本の桟橋が現れた。


古い木造。


海へ真っ直ぐ伸びている。


先端が見えない。


玲司は立ち止まる。


既視感。


ここを歩いたことがある。


そんなはずはない。


それでも身体だけが覚えている。


「行く。」


アヤは何も言わず頷いた。


二人で歩き始める。


足音が響く。


コツ。


コツ。


三つ目の足音が混じる。


振り向く。


誰もいない。


それでも足音だけは増え続けた。



桟橋の途中。


木の板が一枚だけ色を変えていた。


蒼い。


玲司が足を乗せる。


視界が揺れる。


一瞬だけ世界が反転した。


上に海。


下に空。


その逆転した世界で、水城澪が立っていた。


白衣ではない。


濡れた服。


彼女は玲司を見つめる。


「ここまで来たの。」


玲司は叫ぶ。


「澪!」


彼女は首を振った。


「名前を呼ばないで。」


その言葉で景色が砕ける。


現実へ戻る。


玲司は桟橋に膝をついていた。


アヤが肩を支える。


「今、誰かいた。」


玲司は頷く。


「澪だった。」


「でも……呼んじゃいけなかった。」


その理由だけが、胸へ刺さったまま残る。



AQUA-7。


EVEのカプセル内部。


眠る少女の頬を、一筋の涙が伝う。


目は閉じたまま。


涙だけが流れる。


管理体は記録を確認する。


感情反応。


夢想活動。


同期率。


すべて上昇している。


その時。


カプセルの内壁へ、小さな文字が浮かんだ。


内側から。


《忘れないで》


管理体は手を伸ばす。


触れた瞬間。


文字は水滴になって消えた。



桟橋の終点。


そこには船があった。


朽ちている。


帆がない。


鎖もない。


それなのに波に流されない。


船首へ刻まれた文字。


かすれて読めない。


玲司が近づく。


指先で汚れを払う。


浮かび上がった名を見て、呼吸が止まった。


《ASTRAEA》


その瞬間。


船の中から、小さな子どもの笑い声が聞こえた。


ゆっくり。


軋む音。


誰も触れていない扉が、内側から開き始める。


暗い船内の奥で。


誰かが静かに立ち上がった。

第97話「忘却の岸」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は「名前を呼ぶこと」の危うさをさらに深く描きました。


水城澪が繰り返した「名前を呼ばないで」という警告、EVEが残した「忘れないで」という言葉、そしてASTRAEAの名を持つ朽ちた船。


ここから物語は、榊悠真たちが残した“最後の航路”へ踏み込んでいきます。


次話では、船内で玲司たちが“世界で最も古い航海日誌”を目にすることになります。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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