↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/20

第96話 名のない海

名前は、人を繋ぎ止める。


だからこそ——


名を呼ばれない海では、自分が誰だったのかさえ静かに溶けていく。

扉の隙間から吹く潮風は、冷たくなかった。


懐かしい匂いだった。


玲司は立ち止まる。


どこかで嗅いだことがある。


いつ。


思い出せない。


「行こう。」


アヤが隣へ並ぶ。


その一言だけで、玲司は前を向いた。


約束した。


一人では行かない。


二人で扉へ手を添える。


押す。


重いはずの扉は、音もなく開いた。



向こう側は海だった。


地下ではない。


空がある。


雲がある。


水平線がある。


だが何かがおかしい。


波が岸へ寄せない。


海は呼吸するように上下するだけだった。


満ちる。


止まる。


引かない。


「潮が……。」


アヤが言葉を失う。


玲司は砂浜へ足を踏み入れる。


足跡が残る。


振り返る。


消えていた。


一歩前へ進むたび、後ろの足跡が静かに消えていく。


帰り道が消えていく。



「玲司。」


アヤが呼ぶ。


その声が遠い。


十メートルも離れていない。


それなのに海の向こうから聞こえるようだった。


玲司も名前を呼び返す。


届かない。


声だけが吸い込まれる。


その時だった。


砂浜へ、小さな貝殻が転がる。


白い。


世界樹の根と同じ色をしている。


拾う。


耳へ当てる。


波の音。


違う。


誰かの会話だった。


『まだ早い。』


『待たせるしかない。』


『約束は残る。』


最後に、小さな笑い声。


聞いたことがある。


あの子どもの声だった。


玲司は思わず貝殻を落とす。


砂へ触れた瞬間、貝殻は塩になって崩れた。



少し先に一本の木が立っていた。


葉がない。


枝だけ。


枯れているように見える。


近づく。


枝先から水滴が落ちる。


地面へ届く前に蒼い粒子へ変わる。


玲司は木肌へ触れた。


冷たい。


その瞬間。


木の幹へ文字が浮かぶ。


《ここで最初の名前が失われた》


アヤが震える声で読む。


「最初の名前……。」


その続きを考えた瞬間、文字は消えた。


読ませすぎないように。


木が自分で閉じたようだった。



AQUA-7。


管理体はモニターを見つめていた。


玲司たちの生命反応は正常。


だが座標だけが存在しない。


位置情報が空白になっている。


「あり得ない。」


施設の外へ出ても座標は出る。


地下海でも出た。


なのに今は——世界のどこにもいない。


EVEのカプセルが淡く光る。


閉じた瞳の下で、眼球が動いている。


夢を見ている。


いや。


誰かを見ている。


管理体は初めて恐怖を口にした。


「迎えに行っている。」



名のない海。


玲司たちは波打ち際へ辿り着く。


そこだけ海面が鏡になっていた。


二人の姿が映る。


玲司。


アヤ。


その間に、もう一人立っていた。


白い服。


裸足。


顔は映らない。


子どもだった。


アヤが鏡へ手を伸ばす。


子どもも手を伸ばす。


指先が触れる寸前。


鏡の水面へ文字が浮かぶ。


《名前を呼ばないで》


次の瞬間。


子どもの姿だけが、水面の中へ沈んでいった。


波紋は広がらない。


ただ。


海の底から、小さく玲司の名前を呼ぶ声だけが残った。

第96話「名のない海」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は《帰る者は名を捨てよ》の扉の先にある、足跡が消え、声が届かず、座標さえ存在しない「名のない海」を描きました。


「ここで最初の名前が失われた」という言葉、鏡に映る三人目の子ども、そして「名前を呼ばないで」という警告。


この海は単なる異空間ではなく、人間の“存在そのもの”に関わる場所であることが少しずつ見え始めています。


次話では、玲司が初めて「自分ではない自分」の記憶へ触れ、水城澪が残した最後の選択へ近づいていきます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。