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10、HYDRA CHRYSALIS ―ASCENSION― ―境界を越えた時、世界は神話になる―第5章 原初帰還   作者: Nao9999


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第95話 拍手の主

歓迎と拍手は、似ている。


けれど本当に恐ろしいのは——


誰もいないはずの場所で、歓迎されることだ。

闇だった。


蒼穹保管庫を埋め尽くしていた蒼い光は消え、玲司たちは互いの輪郭さえ見失っていた。


聞こえるのは呼吸だけ。


そして。


パン——。


ゆっくりとした拍手。


二度。


三度。


音は反響しない。


まるで耳元で鳴っているようだった。


「誰だ。」


玲司が声を張る。


返事はない。


代わりに、小さな笑い声が混じる。


子どもにも老人にも聞こえる、不思議な声だった。



「怖いか。」


その一言だけが暗闇に浮かぶ。


玲司は答えなかった。


怖い。


だから答えたくなかった。


隣でアヤが玲司の袖を握る。


その震えが、まだ現実を教えてくれていた。


「怖いなら、それでいい。」


声は続ける。


「怖さを忘れた者から、海へ還る。」


その言葉と同時に、足元へ淡い蒼色が戻った。


床だけが光る。


そこには、無数の足跡が刻まれていた。


裸足。


子どもの足。


大人の足。


そして。


榊悠真の名前が添えられた足跡が、一つだけあった。


玲司は息を呑む。


「悠真も……ここを歩いた。」



管理体がゆっくり膝をつく。


彼は床へ手を当てた。


「違う。」


かすれた声だった。


「歩いたんじゃない。」


「見送った。」


その瞬間。


床の蒼い光が一本の線となり、空洞の奥へ伸びる。


暗闇の中に扉が現れた。


今度は円形ではない。


細長い。


人一人が通れるだけの扉。


取っ手がない。


鍵穴もない。


ただ、表面には一文だけ刻まれていた。


《帰る者は名を捨てよ》


アヤが息を呑む。


「どういう意味……?」


玲司は扉へ近づく。


胸の紋様が熱い。


鼓動が速い。


一拍。


沈黙。


一拍。


空白の間で、また声がした。


「玲司。」


今度ははっきり聞こえた。


榊悠真の声だった。


「急ぐな。」


玲司は振り返る。


誰もいない。


それでも、その一言だけが胸に残る。



AQUA-7。


EVEのカプセル。


眠る少女の指先が、今度は確かに動いた。


一度。


ゆっくり。


そして。


閉じていた手の中から、小さな蒼い粒子が零れ落ちる。


床へ触れる前に消えた。


施設中のスピーカーへノイズが走る。


ザーッ——。


その奥から、少女の囁きが混じる。


「……帰って。」


管理体が凍りつく。


その声はEVEではない。


もっと古い。


もっと懐かしい声だった。



蒼穹保管庫。


玲司は扉の前へ立つ。


手を伸ばしかける。


その時。


アヤが静かに言った。


「一人で行かないで。」


短い言葉だった。


玲司はその手を止める。


「約束する。」


その返事を聞いた瞬間。


扉が、ひとりでに軋んだ。


ゆっくり。


ほんの指一本分だけ開く。


隙間の向こうから、潮風が吹く。


海の匂い。


それに混じって。


誰かが泣く声が聞こえた。

第95話「拍手の主」を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は、姿を見せない存在が初めて玲司たちへ語りかけました。


「怖さを忘れた者から海へ還る」という言葉、「帰る者は名を捨てよ」と刻まれた扉、そしてEVEとは違う少女の囁き。


これらはすべて、「帰還」という言葉が持つ本当の意味へ繋がる伏線です。


次話では、玲司とアヤが初めて“二人で”その扉の向こうへ踏み込み、時間そのものが歪んだ海へ辿り着きます。


引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。

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