第95話 拍手の主
歓迎と拍手は、似ている。
けれど本当に恐ろしいのは——
誰もいないはずの場所で、歓迎されることだ。
闇だった。
蒼穹保管庫を埋め尽くしていた蒼い光は消え、玲司たちは互いの輪郭さえ見失っていた。
聞こえるのは呼吸だけ。
そして。
パン——。
ゆっくりとした拍手。
二度。
三度。
音は反響しない。
まるで耳元で鳴っているようだった。
「誰だ。」
玲司が声を張る。
返事はない。
代わりに、小さな笑い声が混じる。
子どもにも老人にも聞こえる、不思議な声だった。
◇
「怖いか。」
その一言だけが暗闇に浮かぶ。
玲司は答えなかった。
怖い。
だから答えたくなかった。
隣でアヤが玲司の袖を握る。
その震えが、まだ現実を教えてくれていた。
「怖いなら、それでいい。」
声は続ける。
「怖さを忘れた者から、海へ還る。」
その言葉と同時に、足元へ淡い蒼色が戻った。
床だけが光る。
そこには、無数の足跡が刻まれていた。
裸足。
子どもの足。
大人の足。
そして。
榊悠真の名前が添えられた足跡が、一つだけあった。
玲司は息を呑む。
「悠真も……ここを歩いた。」
◇
管理体がゆっくり膝をつく。
彼は床へ手を当てた。
「違う。」
かすれた声だった。
「歩いたんじゃない。」
「見送った。」
その瞬間。
床の蒼い光が一本の線となり、空洞の奥へ伸びる。
暗闇の中に扉が現れた。
今度は円形ではない。
細長い。
人一人が通れるだけの扉。
取っ手がない。
鍵穴もない。
ただ、表面には一文だけ刻まれていた。
《帰る者は名を捨てよ》
アヤが息を呑む。
「どういう意味……?」
玲司は扉へ近づく。
胸の紋様が熱い。
鼓動が速い。
一拍。
沈黙。
一拍。
空白の間で、また声がした。
「玲司。」
今度ははっきり聞こえた。
榊悠真の声だった。
「急ぐな。」
玲司は振り返る。
誰もいない。
それでも、その一言だけが胸に残る。
◇
AQUA-7。
EVEのカプセル。
眠る少女の指先が、今度は確かに動いた。
一度。
ゆっくり。
そして。
閉じていた手の中から、小さな蒼い粒子が零れ落ちる。
床へ触れる前に消えた。
施設中のスピーカーへノイズが走る。
ザーッ——。
その奥から、少女の囁きが混じる。
「……帰って。」
管理体が凍りつく。
その声はEVEではない。
もっと古い。
もっと懐かしい声だった。
◇
蒼穹保管庫。
玲司は扉の前へ立つ。
手を伸ばしかける。
その時。
アヤが静かに言った。
「一人で行かないで。」
短い言葉だった。
玲司はその手を止める。
「約束する。」
その返事を聞いた瞬間。
扉が、ひとりでに軋んだ。
ゆっくり。
ほんの指一本分だけ開く。
隙間の向こうから、潮風が吹く。
海の匂い。
それに混じって。
誰かが泣く声が聞こえた。
第95話「拍手の主」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、姿を見せない存在が初めて玲司たちへ語りかけました。
「怖さを忘れた者から海へ還る」という言葉、「帰る者は名を捨てよ」と刻まれた扉、そしてEVEとは違う少女の囁き。
これらはすべて、「帰還」という言葉が持つ本当の意味へ繋がる伏線です。
次話では、玲司とアヤが初めて“二人で”その扉の向こうへ踏み込み、時間そのものが歪んだ海へ辿り着きます。
引き続き『HYDRA CHRYSALIS ―REBIRTH―』をよろしくお願いします。




