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音のないプロポーズ  作者: 神屋青灯
59/60

音のないプロポーズ 59

 

「そうじゃないよ」

 だが、晶子は声の調子を沈めた。


「いつも言ってるけどね、母さんは、結婚が幸せの第一歩だと思ってる。綺麗ごとじゃないよ。経験から言ってんだ」

 斗南は湯呑みを並べると、静かに椅子に座った。

「父さんは本当にいい人だった。母さんは父さんに会って、あんたを授かってから、やっと人生ってものの価値をわかったんだよ。男も女も同じさ。結婚から幸せは始まる」

「うん」

 斗南が頷く。幼い頃から何度も聞いた話が、今は少しだけ実感といっしょに、心へと沁みる。

「前にあんた、上司の人連れて来ただろう。扇雅さんと言ったっけ。あの人を断わったって聞いてね、あんたは一生結婚する気がないんだと思ったから、あたしは焦ったよ」

「あの人は…」

「好きな人がいるなら、その人と過ごすのが何より。当たり前のことだ」

 晶子は斗南を遮るように告げると、熱いままのお茶をさっと飲み干す。そして、春直に顔を向けた。

「娘をお願いしますね。春直さん」

「お母さん…」

 斗南は目を丸くした。晶子がそんな事を言ってくれるとは想像していなかった。それだけに、思わず胸が熱くなる。だが直後、晶子に後頭部を抑えつけられた。

「あんたも頭を下げる!」

「うわ。はい、お願いします」

「何がお願いしますだ。まさかあんた、女は幸せにしてもらえるのを待ってればいいと思ってんじゃないだろうね。甘えるんじゃない!」

 パチンとまた肩を叩かれた。

「自分のことばっか考えんじゃないよ。誠心誠意尽くさせていただきますとか、そういう言葉は出てこないのかい! 相手あってこその結婚なんだからね。肝に銘じなさい!」

「うう。もう、わかってるもん!」

 斗南が頬を膨らませる。春直は笑ってから、両手を机に揃えた。

――こちらこそ、未熟者ですが、よろしくお願いいたします。

 できる限り丁寧に言い、頭を下げる。晶子は初対面のはずなのに、春直の言葉を把握したように、包容な笑みを見せた。


  ◇


 二人して正装で出向く機会は、他にもあった。

 九月の最終日。揃って出掛けたのは、二人の出会った場所だ。

 斗南は今日をもって退職する。結局一度掛かった色眼鏡が解けることはなく、また会社としてもトラブルの元となった扇雅と斗南を同時には残しておけないということで、戦力である扇雅の方が選ばれた。斗南は例の、課長に食って掛かった件が尾を引く形での自主退職になる。

 だが代わりというわけではないが、春直が会社に戻る。これは多くの社員にとって予想外だったようで、また様々に噂が飛び交ったが、もう斗南が食いつくことはなかった。その分毎日、これ見よがしに薬指に指輪をはめて、職場におもむいてやった。

 春直は明日のための挨拶、斗南は逆に片付けや社員証の返還といった事務作業に、二人で出社した。一緒に会社の中に入るのもこれが最後だろう。

「ここで、はじめましてしたんだよね」

 斗南は今もロビーの中心に立つ木を眺めた。春直も隣に並ぶ。あの時から今日まで、そしてこれからも、ずっと斗南の隣にいられることが奇跡のように思える。だが確かな現実なのだという実感もあった。

「私たちにとっては縁結びの木だよね」

 斗南の笑顔に、春直も同意する。

「会社のじゃなかったら、お守り結んだりしたかったなあ」

 冗談ぽく言うと、長い枝に何かを結う真似をした。赤と白の縄が春直にも見える。受付で二人を見つけた社員が何やら興奮して囁いているが、今更気にすることでもない。二人の結婚については、桃ノ木からとっくに周知の事実としてもらっている。


「おいおい。辞めるからって遊び感覚か」

 背後から嫌な声がした。



 (つづく)

 

―――

 明日21時、完結です。

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