音のないプロポーズ 26
つまりその発端に扇雅が?
「今思えば、扇雅さんに訊かれたの。今、お母さんは在宅か、って。その時はただの雑談だと思ったから、パートも終わってるし帰ってると思いますって言っちゃった。結局家の前まで送ってもらったんだけど…」
扇雅は断っても断っても、アパートの前こそ危ないから、ちゃんと部屋の前まで送らないと、などと言い続け、結局玄関まで押し掛けて来たという。さすがに一人暮らしならそこまではさせなかった。だが親もいるし、扇雅だって親切で言ってくれていると思った。玄関前で、それでは、と挨拶すると、扇雅は大声で雑談を始めたという。
「玄関前で娘と男性の話し声がしたら、ふつう何だろうと思うよね。しかも、親しげな調子で、相手はスーツ着た長身会社員。ホッシーのお母さんとしては、待ち兼ねた恋人だったんだろうなあ」
調子に乗り過ぎたか、斗南がキッと氷影を睨んだ。斗南にしてみれば、あれは一生の不覚に近い。母に目撃されるのが一番嫌だったのに、まさか玄関前で話しこまれるとは思いもしなかった。
「ホッシーのお母さんはすぐにドア開けて、夕飯に誘ったんだって。扇雅は二つ返事で快諾したとか。あいつ、普段は一流の物しか食べたくないとかお坊ちゃまぶるくせに、人に取り入るためなら、手料理こそ神だとか、それはもうペラペラ持ち上げたらしいよ」
斗南は聞いていて恥ずかしくなった。それを氷影が言うということは、自分がそのように伝えたということになる。そこまで言ったか覚えが危うかったが、でも親と喧嘩になって聞いてもらった時だ。酒も入っていたし、やはりそう告げたのかもしれない。
「んで、ホッシーのお母さんにホッシーを口説いてますって言ったんだってさ」
その時の母の目を斗南が思い出す。母は本当に嬉しそうで、あんたやったねと肩を叩いた。入社が決まった時より、大学に合格した時より、何倍も輝いた笑顔だった。でも、扇雅の話は嘘だ。そう言ったら喧嘩になった。
嘘でもいいじゃないか、あんな良い人が選んでくれたのだから。
いいわけない。大体、私は告白されたわけでもない。
だったらあんたからして来なさい。待ってるだけの時代は終わったの。
そういうことじゃなくて。あの人はただの上司で、私たちは何でもないんだってば!
…それから母は、事あるごとに扇雅の話しかしなくなった。いつ結婚するのか、どこに住むつもりか、子供はどうするか。母にとっては夢の計画を練るようだったみたいだが、斗南には受け入れられなかった。そもそも、まだ仕事を一人前にこなせるようになったわけでもない。仕事を辞めて家庭に入るのが女の幸せだ、と一致した母と扇雅には、そこから相容れなかった。
斗南は俯いた。
氷影だけに話したのはたまたまだ。心を許した二人のうち、偶然春直にその日会えなかった。だから氷影にだけ打ち明け、相談した。母のことは、離れることで解決するしかなかった。縁を切ったわけではない。ただ、互いに頭を冷やす期間が欲しかった。もっとも、二年以上過ぎても和解できてはいないわけだが。
――ホッシーは、結婚したくないの?
春直があまりにストレートに訊いたので、氷影は少し目を丸くした。それから顔色を見て気付く。ははあ、ホッシーが心配で、自分も告白しようとしてたことなんて、忘れてる顔だな。氷影は春直の不器用な思考にこっそり笑った。
「したくないってことじゃないけど…」
斗南が曖昧に答える。
「今はまだ、って気持ちはあるかな…。仕事だってまだがんばりたいし…」
「けど、結婚したからって仕事やめなきゃってものでもないでしょ?」
「そうなんだけど…」
まあ、春直と結婚したら、どっちか部署を変わることにはなるかもしれないけど、と氷影が心だけで呟いた。斗南は考え込む。
「私…器用に公私を両立とか、させられないんだよね…。結婚して、そっちに気が行っちゃって、仕事が半端になるのはやだなって」
ホッシーはそんなことないよ、と入力しようとして、春直は手を止めた。きっと斗南はもっと高みを目指したいのだろう。そのために気を散らしたくない。的をきちんと絞り、堅実に狙っていく斗南らしい考え方だ。
「どっちにしても扇雅はないでしょ」
氷影が言い放った。もはや、さん付けがなくなっている。
「ていうかね、ホッシーも、もっとちゃんと拒否しないとダメだよ。昨日なんか自宅に来いって言われたんだって? あいつ実家暮らしなんだからさ、向こうの親にまで公認みたいにされたらどうするの」
「行くつもりなんてなかったよ。ただ…断るタイミングが」
「そうするうちにホッシーのお母さんに見られたんでしょ。向こうは強引なんだから、こっちも手段を選んでいられないよ」
斗南がしゅんとする。気の毒には思うが、昨日の扇雅の態度を思うと、春直も氷影に賛同せざるを得なかった。
実を言うと、春直も扇雅に苦手意識がある。春直は経理課で、その課長は斗南の総務課とで兼任している桃ノ木になるわけだが、最も身近な先輩は扇雅だ。去年の秋、誕生日で定年退職した古株の大先輩が抜けて二人きりになった。
以降、何かと厳しく接されることが多いのだ。
仕事の早さ、順序などはもちろん、性格や態度を咎められることも少なくない。気を付けてはいるのだが、扇雅の指示自体がその都度、真逆になったりするから、ほぼ毎日怒られてしまう。扇雅が傍にいると、春直はいつも落ち着かなかった。
その扇雅が見舞いに来て、だからやはり、少し怯えがあった。そして、斗南も同じように見えた。遠慮や配慮とは違う、警戒が感じられた。それが過去の求婚に起因するもので、今も斗南の心を不安にさらしているとするならば。
当然、“親友”として、そんな男に斗南を渡したくはない。
(つづく)




