音のないプロポーズ 24
その時、春直のスマホがメールを受け取った。氷影だ。
――ホッシー引き止めて。絶対にあいつと二人で帰らせないで。どんな手使っても止めて!
何だこれ? きょとんとした。その間に、部屋のドアがスライドされる。扇雅が開けたのだろう。突如、焦った。氷影の言う通りにするとすれば、今引き止めるということか。でもそれは無理だ。もう姿が見えない。呼びつけることはできない。斗南にメールをしても、扇雅と一緒ではすぐに見ないだろう。
「さて、何か食べて行こうか」
廊下から扇雅の声がした。目的はこれか、と斗南と春直が気付く。見舞いはただのダシか。だったら来ない方がマシなのに。
「あの、私…」
「この近くにはあまり良い店がないな。足を延ばして川のある方まで行こうか。季節のワインに美味しく合わせる店がある。それか…」
断る斗南には一切取り合わず、扇雅が話を進めているのがわかる。いや、聞こえるように話しているのだろう。斗南の返事はかんばしくない。自分のせいで巻き込んだ責任を感じ、春直は罪悪感を覚えた。氷影の言う、止めろというのはこういうことなのだろうか。
「そうだ。さっき家に新鮮なオマール海老が届いたと父上から連絡があったんだよ。そうだ、それにしよう」
「え? 家…?」
「ちゃんとコックが腕を振るうさ。まだ父上も夕食前だろうし、よし、それだ。すぐに行こう」
扇雅が斗南の手を掴んだ。
斗南の怯える気配が室内からでもはっきりわかる。だが見知らぬ人でもないのに、食事に誘われたくらいで騒ぎ立ててまで拒めない。カバンもまだ扇雅が持ったままだ。斗南の目が震える。
今度は罪悪感ではなかった。嫌だと、春直の心が叫ぶ。斗南を連れて行ってほしくない。でもそんな感情で斗南を止めていいのだろうか。それを見透かしたように、氷影が更にメールを送って来た。
――そっちに向かってるから。すぐに行くから、どうにか足止めして! ホッシーを助けると思って!
さすがに慌てた。よくわからないが、氷影の指示は冗談でも何でもない。扇雅の行動を見透かしているのだろか。とにかく、斗南を止めなければいけない。春直は辺りを見回し、とっさに配膳板を丸ごとひっくり返した。
「えっ、今の音って?」
派手な音に、斗南が足を止めた。油断した扇雅を振り解き、すかさず部屋に舞い戻る。すると、床にはコップが数個と、フタの開いたペットボトルが落ちていた。
「春ちゃん、大丈夫!?」
斗南は真っ先に春直の心配をした。また罪悪感がこみ上げる。ごめん、手が滑った、と嘘を吐いた。空のコップをぶちまけてから、わざわざ床を濡らすためにボトルを空けたとはとても言えない。
「何やってるんだか…」
扇雅が嫌々追いかけてきて、部屋を見て溜め息を吐いた。斗南は春直に怪我がないとわかると、ほっとしたようにコップを拾い始める。
「おい。そんなのナースがやるだろう。帰るぞ」
扇雅はあからさまな不満を浮かべた。斗南は背を向けたまま、淡々と片づけをしていく。
「私は片付けてから帰ります。扇雅さんは、お先にどうぞ」
帰れ帰れ、と心で毒づいていたのは言うまでもない。でもこれで帰ってくれれば、少しは春直と話せる。そう期待したのに、扇雅はわざとらしい盛大な溜め息を漏らし、壁にもたれた。
「面倒な。早くしてくれ、僕は帰りたいんだよ」
それには春直もがっかりした。それに、また焦りも生まれる。斗南は手際よく作業を進めていて、これでは時間が稼げない。
扇雅はあくびをしながら天井を見ていた。目を盗み、そっと斗南に手を伸ばす。小さく腕を握ると、顔を上げた斗南と目が合った。
――ここにいて。
無意識に声を潜める動作でそう伝えた。斗南のよそ行きの顔が少し崩れる。春直が自分に助け舟を出してくれたのだと気付いた。いいの、と小声で返すと、氷影から来たメッセージを見せられた。本当は、万が一こうなる可能性を斗南も予期していた。こっちに来てくれているとわかり、安心する。小さく頷くと、敢えて手間取った片付けに切り替えた。扇雅は苛々しているだけで、床を拭く女の様子など見ていない。
春直はヒヤヒヤしながら、何度も時計を見た。
「おい、まだかよ」
さすがに怪しいと思い始めたか、扇雅が近付いて来る。
誤魔化せなくなり、斗南は作業を終わらせ始めた。春直が布団の影で何度もスマホを見る。念入りに床を拭くティッシュが尽きた、ちょうどその時だった。
――着いた!
(つづく)




