其のニ 津軽の国
冬が終わり、春が来た。
今年も金のある奴らだけが、泥濘の残るこの村を去っていった。
俺も村を出ようとした。だが、手元には一文の銭もありはしない。
そんな兄の焦燥も知らず、妹は隣でスヤスヤと寝息を立てている。
もっといい物を着せてやりたい。もっといい物を食わせてやりたい。
その一心で、俺は手を汚した。指先に残る、あの忌まわしい感触が消えない。
「……伝聞です」
突如、静寂を破って扉を叩く音が響いた。
伝聞? 誰が? なぜこんな時間に。
心臓が跳ね上がる。まさか、あの人殺しが露見したのか。誰かに見られていたのか。
不安と焦りが、激しい動悸となって胸を突き上げる。
黙ってやり過ごそうと息を殺したが、外の気配はそれを許さなかった。
土足で踏み込んできたのは、黒い装束を纏った異様な集団だった。
その手には火縄銃。村の役人ではない。異国の、あるいはどこかの私兵か。
蛇のように冷たい視線が俺を射抜く。
「宗春だな。……これを読め」
殺される、という直感に反して、差し出されたのは一通の書状だった。
俺はおののく手で、その紙を広げた。
肥前宗春 殿
近頃の寒威、ことのほか厳しき折、貴殿の里においては、この冬、さぞ難儀せしことと拝察仕る。
かかる窮状の中、貴殿が自らの手にて銭を得んとし――ついに人を斬りし由、しかと見届けたり。
若年にして名も持たぬ身でありながら、その躊躇なき振る舞い、並の者にあらず。
我ら、久しく貴殿の行いを見定めてきたり。
金を欲する執念も、人の命を厭わぬ非情も、いずれも此度の遊興にふさわしき資質なり。
よって一つ、申し入れ候。我らと一興、共に遊ばぬか。
無論、徒らに誘うものにあらず。
この遊びにて最後まで立ちし者には、
二百貫の褒美、これを下す
偽りにあらず。されど、疑念あらば無理にとは申さぬ。
十五日後、津軽の国 澄月寺に参られよ。その折、すべてを示そう。
敬具
「……は? なんですか、これ……」
頭が真っ白になった。二百貫。
それが真実なら、一生どころか、子々孫々まで遊んで暮らせるほどの大金だ。
妹にひもじい思いをさせることも、もう二度とない。
「その通りだ。今ここで、貴殿の参加の意思を確認したい」
男の言葉は、感情の抜けた機械のように淡々としていた。
「……途中で抜けることは?」
「可能だ。ただし、遊びが始まったが最後、生きて降りることは叶わぬと思え」
その言葉の裏にある「死」の予感よりも、俺の目は二百貫という光に眩んでいた。
脳裏を過るのは、冷たくなって動かなくなった母の姿。
どれだけ土を掘っても見つからなかった食料。
そして、昨日、金を奪うために俺が斬り伏せた男の断末魔。
もう、真っ当な道など残っていないのだ。
俺は声を出さず、深く、強く、首を縦に振った。
「承知した。三日後の晩、迎えを送る。支度を終えて待て」
黒装束の連中が去った後も、心臓の爆音は止まなかった。
地獄へ足を踏み入れたという確信に近い不安と、すべてを引っくり返せるという狂おしいほどの期待。
約束の三日後の晩。
再び現れた彼らは、俺に目隠しを命じ、馬へと乗せた。
妹は、村に残った数少ない知り合いの家に預けてきた。
「すぐに迎えに来る」という嘘を、彼女は泣きながら信じてくれた。
妹の泣き顔を思い出すたび、胸が締め付けられる。
揺れる馬の背で、視界を奪われた俺は思考に沈む。
なぜ、これほどの秘匿が必要なのか。場所を知られてはならない「遊び」とは何なのか。
問いかけても、馬を引く男は岩のように黙したままだった。
不安に耐えかね、いつしか俺は、浅い眠りに落ちていた。
「着いたぞ。起きろ」
冷ややかな声に揺り起こされた。
目隠しを外すと、そこには深い霧に包まれた寺の門がそびえ立っていた。
眠たい目を擦り、肌を刺すような冷気に身震いする。
俺を連れてきた男が、門番に告げる。
「……何番だ」
「二百七十一番。肥前宗春」
「通られよ」
重厚な門が、地響きを立てて開いた。
一歩足を踏み入れると、背後から追い払うような声が響く。
「御心穏やかにお過ごしくだされ……」
それが、生者への手向けか、あるいは死者への嘲笑か。
考える間もなく、寺の重い門が、逃げ道を塞ぐように閉ざされた。
2話更新しました。よろしくお願いします




