綾部貴子第5話 名前が呼ばれた日
夕方、駅前のベンチに並んで座った。
約束をしたわけじゃない。
講義が終わって、自然と一緒になっただけだ。
それが、私たちのやり方だった。
「……先輩」
いつも通り、そう呼ぶ。
「なに、綾部」
返ってくる声も、いつも通り。
でも今日は、
その「いつも通り」が、少しだけ重かった。
先輩の様子が、違う。
何かを決めてきた人の、
静かな緊張があった。
「ねえ」
先輩が声を出す。
私はすぐに顔を向けた。
「はい」
逃げないように、
視線を逸らさないように。
「マイケルのこと」
その名前が出た瞬間、
心臓が跳ねた。
やっぱり、と思ってしまう。
「……はい」
短く答える。
「兄さんに、聞いてもらった」
先輩は、ベンチの木目を見つめたまま言った。
「ゲーセンに行ったとき」
私は、黙って聞く。
途中で口を挟んだら、
この話は終わってしまう気がした。
「勘違いだった」
その一言で、
一瞬、意味が理解できなかった。
「マイケルは、私のこと、
そういうふうに見てない」
耳が、熱くなる。
「……本当、ですか」
確認する声が、震えた。
「うん」
先輩が、こちらを見る。
「兄さんが、ちゃんと聞いた」
胸の奥で、何かがほどけた。
息を吸って、
ゆっくり吐く。
「……そう、だったんですね」
声が、思ったより弱かった。
ずっと、
自分を後ろに下げる理由にしていた。
でも、それは、
最初から存在しなかった。
「だから」
先輩は続ける。
「不安にさせてたなら、
ごめん」
私は、首を振る。
「先輩のせいじゃないです」
それは、本心だった。
でも。
「……少し、安心しました」
そう言ったとき、
自分の声が、少しだけ柔らかいのがわかった。
言えばよかった。
最初から。
そう思う。
でも、
言わなかった自分を、
今は責めなかった。
沈黙が落ちる。
でも、怖くない。
先輩が、膝の上で指を握るのが見えた。
何かを、選ぼうとしている。
「……綾部」
名前を呼ばれた。
下の名前じゃない。
それでも、
今までとは違う響きだった。
顔を上げる。
「はい」
「名前」
先輩は、言葉を選んでいる。
「呼んでも、いい?」
一瞬、理解が遅れた。
それから、胸がいっぱいになる。
「……百合、先輩が」
言いかけて、止まる。
自分でも驚くくらい、
動揺していた。
「……百合さんが、
そうしたいなら」
それが、精一杯だった。
先輩が、少し息を吸う。
「……貴子」
呼ばれた。
世界が、一瞬止まった。
逃げられない。
でも、逃げたいと思わなかった。
「……はい」
そう返してから、
少し間を置く。
「百合」
初めて、
名前を呼んだ。
胸の奥が、
きゅっと鳴る。
嬉しい。
怖い。
全部、本当だった。
でも。
これは、
私が黙っていた結果じゃない。
先輩が、
自分で選んだ瞬間だ。
駅のアナウンスが流れる。
「そろそろ、帰ろっか」
「はい」
立ち上がる。
並んで歩く。
呼び方が変わっても、
距離は変わらない。
急に近づいたりしない。
それが、ちょうどいい。
この日、
私は初めて知った。
黙っていた理由が、
もう役目を終えたことを。




