綾部貴子第4話 呼べなかった名前
先輩の名前を、口の中で何度もなぞった。
百合。
声に出さずに、
ただ、頭の中で。
それだけで、
胸の奥が少しだけざわつく。
名前を呼ぶという行為が、
こんなに重たいものだとは思わなかった。
「先輩」
実際に口にするのは、
いつもこの呼び方だった。
「なに?」
返事は、変わらない。
距離も、変わらない。
それなのに、
呼び方だけが、
ずっと同じ場所で止まっている。
百合。
呼んでしまったら、
何が変わるだろう。
距離が縮む。
期待が生まれる。
関係が、はっきりしてしまう。
それは、
嬉しいはずのことなのに。
私は、そこから一歩引いてしまう。
先輩は、比べられてきた人だ。
兄と。
代わりにされたことがある。
それを知ってから、
名前を呼ぶのが、
余計に怖くなった。
呼ぶ=求める。
そう感じてしまう。
もし、私が先輩を呼んだら。
百合、と。
先輩は、
「選ばれている理由」を
また探し始めるかもしれない。
それは、
私が一番避けたいことだった。
帰り道、並んで歩く。
信号待ちで、
隣に立つ。
名前を呼ぶ、
絶好の距離。
「……」
喉が動く。
でも、声にならない。
先輩は、
私が何も言わなくても、
不自然に思わない。
それが、救いであり、
甘えでもあった。
マイケルの姿が、
ふと頭をよぎる。
距離が近くて、
呼び方に迷いがない人。
先輩の名前を、
簡単に呼ぶ。
それを見て、
私は思った。
あの人は、
踏み込むことを恐れていない。
でも、私は。
踏み込んだ結果、
先輩が不安になるなら、
踏み込まない方がいい。
そう考えてしまう。
だから、呼ばない。
名前を。
先輩、と呼ぶことで、
関係を保つ。
安全な距離で、
そばにいる。
それが、
私の選んだ立ち位置だった。
夜、布団に入って、
目を閉じる。
百合。
やっぱり、声に出せない。
呼べなかった名前が、
胸の奥に残る。
それでも、
黙っている方が、
誠実だと思っていた。
少なくとも、
この時までは。




