綾部貴子第3話 付き合ってからの戸惑い
いつから、付き合っていることになったのか。
はっきりした言葉は、なかった。
好きだと言われた覚えも、
好きだと言った覚えもない。
それでも、私たちは一緒にいる。
講義のあとに待ち合わせて、
帰り道を揃えて、
連絡を取り合う。
誰かに聞かれたら、
きっと「付き合っている」と答える。
でも、その実感が、
私の中では定まらないままだった。
「先輩」
いつものように、そう呼ぶ。
「なに?」
返事も、いつも通り。
距離も、変わらない。
変わったのは、
私の立場だけだ。
選ばれた側。
そういうことになっている。
でも、先輩は安心していない。
隣を歩きながら、
何度もそう感じる。
視線が、少し遠い。
言葉が、慎重すぎる。
触れられる距離にいるのに、
踏み込まない。
――まだ、試されている。
そう思ってしまう自分が、嫌だった。
もし、ここで「好きだ」と言ったら。
先輩は、どうするだろう。
ほっとするかもしれない。
でも、重く受け取るかもしれない。
その想像が、頭から離れない。
先輩は、比べられてきた人だ。
代わりにされたことがある。
その事実を知ってから、
私は余計に言えなくなった。
私が欲しいと言ったら、
また、同じ形になる気がした。
だから、黙る。
今の関係を壊さないために。
帰り道、信号で立ち止まる。
「……先輩」
「うん?」
言いかけて、やめる。
何を言うつもりだったのか、
自分でもわからない。
「どうした?」
先輩が、気づいてくれる。
「いえ」
首を振る。
「大丈夫です」
それ以上、聞いてこない。
そのやさしさが、
胸に刺さる。
付き合っているのに、
確認し合っていない。
それが、
今の私たちだ。
夜、布団に入って、
スマホを見る。
先輩からの短いメッセージ。
《今日はありがとう》
それだけで、
心が落ち着く。
言葉がなくても、
続いている。
でも、続いているだけだ。
このまま、
何も言わずにいれば、
先輩は安心するだろうか。
それとも、
ずっと不安なままだろうか。
答えは、まだ出ない。
だから私は、
今日も選ぶ。
言わない、という選択を。
それが、
今できる唯一の誠実だと、
信じていた。




