綾部貴子第1話 先輩を好きになってはいけないと思った日
先輩と初めて話した日のことを、私はよく覚えている。
新学期が始まってすぐの、まだ構内に慣れていない頃だった。
資料室の前で、行き先がわからず立ち止まっていた私に、声をかけてくれた。
「探してるもの、ある?」
それが、沢田百合先輩だった。
声は落ち着いていて、距離が近すぎなかった。
助けようとしているのに、踏み込みすぎない。
「……あの、レポートの資料で」
「この棚の奥だよ。一緒に行こうか」
そう言って歩き出す背中を見て、
妙に安心したのを覚えている。
話し方も、歩く速さも、私に合わせてくれた。
それなのに、必要以上に親しくなろうとはしない。
やさしい、というより。
慎重な人だと思った。
棚の前で立ち止まり、先輩は振り返った。
「これ、かな」
「はい……ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけだった。
連絡先も聞かない。
名前も名乗らない。
なのに、頭に残った。
数日後、講義でまた会った。
そのとき初めて、先輩の名字を知った。
沢田。
聞き覚えがあった。
「双子なんだよね」
同じゼミの人が、何気なく言った。
「兄の方、見たことある?
後ろ姿、そっくりだよ」
その言葉で、全部がつながった。
私は、無意識に先輩を見る。
髪の長さ。
立ち姿。
静かな雰囲気。
比べられてきた人だ。
そう思った瞬間、
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
先輩は、比べられるのが嫌なんだと思った。
理由はわからない。
でも、そう感じた。
その日の帰り道、
先輩が少しだけ疲れた顔をしていた。
誰かに何かを言われたあとみたいな、
黙って飲み込んだ表情。
私は、その横顔を見て思った。
好きになったら、
この人は、また傷つく。
私が、そうする側になる。
その予感が、はっきりあった。
女の子同士だ。
先輩後輩だ。
しかも、比べられてきた人。
条件は、全部そろっていた。
だから、その日のうちに決めた。
――黙ろう。
好意が芽生える前に、
芽を摘む。
それが、一番きれいだと思った。
次に会ったとき、
先輩は私を見て、軽く会釈した。
「この前は、どうも」
「いえ……」
それだけの会話。
でも、私は知っている。
この人は、
距離を保つことが、
自分を守るやり方だ。
なら、私は。
それを壊さない。
好きになる前から、
言わないと決めた。
それが、
私なりの誠実さだった。




