第19話 変えてもいいと、思えた日
夕方、駅前のベンチに並んで座った。
約束をしたわけじゃない。
講義が終わって、自然と一緒になっただけだ。
「……先輩」
綾部が、いつも通り呼ぶ。
「なに、綾部」
私も、いつも通り返す。
でも今日は、
その「いつも通り」が、少しだけ重かった。
言わなきゃいけないことが、ある。
ずっと、後回しにしてきた。
「ねえ」
私が声を出すと、
綾部はすぐにこちらを見る。
「はい」
逃げない目だった。
「マイケルのこと」
その名前を出した瞬間、
綾部の肩がわずかに強張る。
「……はい」
「兄さんに、聞いてもらった」
ベンチの木目を見る。
「ゲーセンに行ったとき」
綾部は、何も言わずに聞いている。
「勘違いだった」
私は、はっきり言った。
「マイケルは、私のこと、
そういうふうに見てない」
少し、間が空く。
「……本当、ですか」
「うん」
顔を上げて、綾部を見る。
「兄さんが、ちゃんと聞いた」
綾部は、息を吸った。
それから、ゆっくり吐く。
「……そう、だったんですね」
声が、少しだけ震えていた。
「だから」
私は続ける。
「不安にさせてたなら、
ごめん」
綾部は、首を振る。
「先輩のせいじゃないです」
それでも、表情が緩む。
「……少し、安心しました」
その言葉に、胸が温かくなる。
言えばよかった。
もっと早く。
沈黙が落ちる。
でも、嫌な静けさじゃない。
私は、指先を膝の上で握った。
もう一つ、
今日は選びたいことがある。
「……綾部」
名前を呼ぶ。
下の名前じゃない。
でも、今までと違う響きで。
綾部が、はっと顔を上げる。
「はい」
「名前」
言葉を選ぶ。
「呼んでも、いい?」
一瞬、理解が遅れる。
それから、綾部の目が揺れた。
「……百合、先輩が」
言いかけて、止まる。
少し照れたように、視線を逸らす。
「……百合さんが、
そうしたいなら」
その答えが、
私の背中を押した。
「……貴子」
声が、思ったより静かだった。
でも、確かに届いた。
綾部が、目を見開く。
それから、ゆっくり笑う。
「……はい」
少し間を置いて。
「百合」
呼ばれた瞬間、
胸の奥が、きゅっと鳴った。
大きな変化じゃない。
髪も、色も、
何も変えていない。
でも。
自分で選んだ。
誰かに選ばれ続けるためじゃなく、
自分が、そうしたかったから。
それだけで、
十分だった。
駅のアナウンスが流れる。
「そろそろ、帰ろっか」
「はい」
立ち上がる。
並んで歩く。
呼び方が変わっても、
歩幅は同じ。
急に近づいたりしない。
それが、ちょうどいい。
変えてもいいと、思えた日。
私は、
まず名前から、選んだ。




