第17話 変えなくても、続いている
名前を呼ぶのは、思っていたより難しかった。
翌日、講義が終わって校舎を出る。
いつもの帰り道。
いつもの距離。
「……先輩」
綾部が、少し遅れて声をかける。
「なに、綾部」
いつもと同じ呼び方。
それだけで、少しだけ安堵してしまう。
昨日の会話が、頭に残っていた。
――百合、って。
――貴子、って。
呼んでいないのに、
知ってしまった。
歩きながら、
何度かタイミングを探る。
今なら、呼べるかもしれない。
そう思う。
でも、喉が動かない。
「先輩、今日このあと」
綾部が話しかける。
「図書館、寄ります?」
「うん、少し」
「じゃあ、一緒に」
「うん」
返事は、全部いつも通り。
図書館の前で立ち止まる。
夕方の風が、少し冷たい。
綾部が、こちらを見る。
「……先輩」
間があった。
「名前で、呼んだほうがいいですか」
直球だった。
胸が、ぎゅっと縮む。
「嫌、とかじゃないです」
すぐに続ける。
「ただ」
視線を落とす。
「呼びたいけど、
呼んだら、
今より近くなりすぎる気がして」
その言葉が、
私の中にそのまま落ちた。
「……わかる」
私も、正直に答える。
「呼んだら、
戻れなくなる気がする」
付き合っているのに、
今さら何を、と思う。
でも、私たちは、
急に進めるほど強くない。
綾部は、少し笑った。
「じゃあ」
「うん」
「今日は、いつも通りで」
それは、逃げではなかった。
選んだ結果だった。
図書館で並んで座る。
同じ机。
同じ静けさ。
綾部が小声で言う。
「先輩、ここ、わかります?」
私はページを覗き込む。
「ここはね……」
肩が、少し触れる。
名前を呼ばなくても、
距離はある。
触れなくても、
つながっている。
帰り道、別れ際。
「じゃあ、また明日」
「うん、また」
それだけで、十分だった。
変えなくても、
続いている。
呼び方も、
距離も、
気持ちも。
無理に変えなくても、
壊れていない。
その事実が、
今日の私を支えていた。




