第006話「森の中の教育(後編)」
ぴたり、と。
森の音が止んだ。
風が止まり、葉が揺れる気配も消える。
遠くで鳴いていたはずの鳥の声も、いつの間にか途絶えていた。
ただ、湿った空気だけがその場に沈殿している。
「……?」
アリスは小さく首を傾げる。
つい先ほどまで感じていた森のざわめきが、嘘のように消えていた。
それは“静か”というよりも、
──“黙らされた”ような静寂だった。
視線を巡らせる。
樹眼菌に覆われた木。
その幹にびっしりと張り付いていた“目”がただ森の奥の一点のみを見つめていた。
「……注意しなさい」
マリアの声は低かった。
その手が、わずかにアリスの手を強く握る。
ぴちゃ……と、どこかで鳴っていた水音も、もう聞こえない。
苔に生えた茸の淡い発光も、心なしか弱まっている。
森そのものが、呼吸を止めているようだった。
ざり……
何かが、踏みしめる音。
けれど姿は見えない。
音だけが近づいてくる。
ざり……ざり……
不規則で、重く、引きずるような足音。
アリスは目を輝かせた。
「……なにか、くる」
恐怖ではない。
純粋な興味だった。
それは、木々の奥から現れた。
最初に見えたのは、骨だった。
皮膚の下から浮き出る肋骨。
不自然なほど細い胴体。
ところどころ裂けた皮膚の隙間から、白い筋肉が覗いている。
四足の獣。片方だけ残った耳を見る限りおそらくイヌ科だろうか。
だが、その形はどこか歪んでいた。
茶色い毛皮はどす黒い血液に濡れて渇き、胴体の皮膚はアバラが浮き出るほど骨に張り付いている。
前足は途中でありえない方向に折れ曲がっていたが、筋肉で無理やり体を支えさせているせいか地面に深く食い込んでいる。
顎は歪に大きく開き、裂けるように広がっていた。
そして、こちらを見つめる双眼は──
黄色く濁りつつ、ただこちらから一切視線を逸らさなかった。
「……」
獣は立ち止まった。
濁った目が、アリスを捉える。
その瞬間。
わずかに、揺れた。
まるで判断を迷うように。
ぐぅぅぅ、ぎゅるるぅぅ……
腹の鳴る音が、森に響いた。
次の瞬間。
獣の体が、前へと沈む。
「見なさい、アリス」
マリアが静かに言った。
「あれは今まで貴方が相対した生物とは異なります」
獣は動かない。
だが、その視線は外れない。
「群れから追いやられ、満足に餌も食べることができず、今まさに死に瀕したモノです」
マリアは続ける。
「覚えておきなさい」
一瞬だけ、視線がアリスへ向けられる。
「この世界の生物すべてが貴方に好意を持つわけではありません」
「ただ、“敵と認識しにくい”だけです。つまり......」
そして。
「強烈な空腹や恐怖は、それを簡単に上回ります」
ぐるぁあああッ!!
咆哮。
同時に、獣が地面を蹴った。
速い。
瞬きの間に距離が消える。
巨大な顎が、アリスへと迫る。
ぶち、と。
乾いた音がした。
アリスの右腕が、なくなった。
「……あ」
先ほどまで腕があった場所を、アリスは見つめる。
断面は滑らかだった。
血は出ていない。
骨も見えない。
ただ、白い。
どこまでも、同じ色だった。
「とれた」
淡々とした声。
驚きはあっても、恐怖はなかった。
獣はすぐさまアリスのちぎれた腕を噛み砕き飲み込む。
だが、止まった。
違和感。
味がない。
生命の反応が、ない。
「おなか、すいてるの?」
アリスは首を傾げる。
「……」
獣は低く唸る。
だが、その視線は揺れている。
迷いと飢餓が、せめぎ合っていた。
「じゃあ……」
アリスは一歩、獣に近づいた。
マリアは止めない。いつのまにかマリアはアリスの手を放していた。
ただ、見ている。
「たべるのは、いいこと?」
アリスからのマリアへの問いかけ。
「それが、“生きる”ということです」
マリアは答えた。
迷いなく。
「……そっか」
アリスは、小さく頷いた。
そして。
獣の前に立つ。
「じゃあ、おかえしね」
次の瞬間、アリスは獣のいびつな前右脚を掴んでいた。
ぐしゃり、と。
触れた場所から、崩れた。
肉でも骨でもない。
まるで“糸”がほどけるように。
ただでさえ歪んでいた獣の顔がさらに歪む。
苦痛。
恐怖。
そして──
理解できない何かへの拒絶。
そんな獣に向けてアリスはにっこりと笑みを返す。
その瞬間、アリスの無事な方の腕の表面が急に泡立ち始めた。
骨が伸びる。
皮膚が裂ける。
アリスの体に不釣り合いなほど腕が巨大化していく。
瞬く間にアリスの腕は、獣と同じ歪な前脚と瓜二つになった。
視界が一瞬だけ変わる。
嗅覚が、爆発的に広がる。
血の匂い。
腐敗の匂い。
「んー?」
まるで自分の身体を探るようにアリスは唸る。
だが次の瞬間。
その変形は、崩れた。
元の細い腕に戻る。
「……むずかしい」
ぽつりとアリスは漏らす。
獣は後ずさる。
本能が理解した。
これは、“捕食者”だと。
そして自分こそが“獲物”なのだと。
そして、逃げた。
森の奥へと自身の身体を引きずるように。
静寂が、戻る。
アリスは、なくなった腕を見る。
そして、少し考えてから。
自分の肩口に触れた。
じわり、と。
白い肉が蠢き、伸びる。
ゆっくりと、腕が再構築されていく。
「……できた」
小さく呟く。
「たべるのは、いきること」
「おなかすいたら、たべる」
その声は、理解ではなく。
ただの“記録”のようだった。
「ええ。その通りです」
マリアは微笑む。
(順調ですね)
(理解も、適応も)
森の奥。
暗闇の中で。
いくつもの気配が、わずかに蠢いた。
それらは、見ていた。
アリスを。
まるで、異質なものを見るように。




