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雪白幼女は愛を謳う  作者: 湖中蛙
【第1章】楽園編
5/9

第005話「森の中の教育(前編)」

お久しぶりです

またぽそっと書き始めます


湿った土の匂いがした。

それは庭で嗅いだものよりもずっと濃く、重く、どこか“古い”匂いだった。


「……ん、ぁ……」


アリスは小さく息を吸い込む。

肺の奥に入り込んでくる空気は、どこかぬるく、ねっとりとしている。


「ここから先が、森の内側です」


マリアはそう言って、アリスの手を握り直した。

少し前までは歩くことすら危うかったその手は、今ではしっかりとマリアの指を握り返している。

けれどその歩幅はまだ小さく、苔むした地面に足を取られそうになりながら、一歩一歩進んでいた。


「すごい……」


アリスの声は、ほとんど吐息のようだった。

空は見えない。

頭上を覆う樹木は、家の周囲にあったものよりも遥かに巨大で、枝は絡み合い、葉は幾重にも重なって光を遮断している。

わずかに差し込む光は緑に濾過され、森全体が水底のように揺らめいていた。


足元には厚く積もった苔。

踏み込むたびに、じゅ、と湿った音が鳴る。

ところどころに露出した根は蛇のようにうねり、まるで生きているかのように脈打っているようにも見えた。


フェンリルの子供との邂逅から2週間がたっていた。

あれからアリスはさらに様々な言葉を学び、つたないながらもそれなりの会話ができるようになっていた。

マリアもおんぶ紐はもう使うことがなくなり、若干のさみしさを覚えながらもアリスの成長を喜んでいた。

しかし同時に、マリアは自身の教育の不完全さを感じていた。


確かに動物を通してアリスに教育を施す方針に特に問題はない。

だがその動物たちというのが、基本的に飼いならした生き物たちに限られていた。

野生から離れたもの、野生からはじき出されたものたちだったからだ。

本来の彼らの生活を見せるには、あの家の庭では不十分だと感じていた。


アリスの足取りがしっかりとしはじめ、こちらの言葉もそれなりに理解し、なおかつアリスの意思も拙いながらも伝えることができるようになった今、マリアはついにアリスを庭の外に連れ出すことを決意した。


そこからが長かった。

アリスが初めて庭に出るのにも散々時間を使い、おめかしさせたマリアである。

当然森に行くのであれば同じように、いやそれ以上に時間をかけてアリスを着飾った。


結果としてアリスは着せ替え人形となっていた。

今のアリスは、白のワンピースと紺色のインナーに身を包み儚さの中に実用性を備えた姿をしていた。

光の加減によっては銀にも見える白髪は、薄銀色のリボンでポニーテールにしており、深緑色のポーチを首から下げている。

ぶ厚めの子供用ブーツをはいたアリスは森の中にいるにしては少々浮いていた。


この格好に落ち着くまでにとてつもない時間がかかっていたためか、森に行くと聞いた当初は目をらんらんとさせていたアリスは終わるころには辟易とした表情をしていた。


しかし一度森に入ってしまえはそこはもう別世界。

あちこち首を振っていろんなものに興味を惹かれ、歓声をあげては歩みだそうとするたびにマリアに手を引かれて静止させられていた。


「マリア……ここ、いきてる?」

「ええ。ここは“生きている場所”ですよ」


ぴちゃ……ぴちゃ……

どこかで水音がする。

視線を向けると、小さな水たまりのような窪地があった。

その表面は静止しているのに、内部だけがゆっくりと波打っている。

その中に、小さな影がいた。


「……あれなに?」


アリスが近づこうとした瞬間、マリアの手がわずかに強くなる。


「よく見なさい」

「……?」


アリスは目を凝らす。

水の中にいた“それ”は、魚ではなかった。


半透明の体。

内臓のようなものがゆらゆらと揺れている。

時折薄緑色に発光しては右に左にと漂っていた。


そして──


その体の中心に、“口”があった。

ぱく、ぱく、と水を噛むように開閉している。


「ヒトクチクラゲ。水場に潜み獲物を引きずり込みます」

「えもの……」


その時だった。

水面の縁に、小さな虫がとまった。

次の瞬間、ずぶり、と。

水面が沈み込むように歪み、虫が一瞬で消えた。

水の中の“口”が、ゆっくりと閉じる。

アリスは目を見開いたまま、動かなかった。


「……たべた?」

「ええ」


マリアの声は、淡々としている。


「ここでは、“食べること”が生きることです」


さらに奥へ進む。

森はさらに深くなっていく。


木々から零れ落ちていた光はさらに少なくなり、夜かと見まごう程の暗闇が支配していた。

しかし、地面のコケや木にうっすらと生えた小さなキノコが、チカチカと淡い光を点滅させていて辛うじて周辺は見ることができた。


そんな木々の中、ひと際奇妙な木が一本たっていた。

幹はぐにゃぐにゃと折れ曲がり、根っこは地面から跳ね上がり鞭をしなるようにいびつに湾曲している。

葉も花も一切生えていないにも関わらず妙に真っ赤な売れた果実だけが枯れたような枝からいくつもぶらさがっていた。

木々の幹には、奇妙な模様が浮かび上がっている。


近づいてみると、それは模様ではなかった。

びっしりと張り付いた、無数の“目”だった。


「えっ……」


アリスが息をのむ。

その目は、すべてこちらを見ている。

瞬きもせず、ただじっと。


「樹眼菌ですね。この木は周りにある巨木となんら変わらない普通の木だったようですが樹眼菌に寄生されて中身を作り替えられたようですね」

「みてる……」

「ええ。見ています。そして、知らせます」

「だれに……?」

「この樹眼菌は少し変わっていまして。木に寄生する菌と、動物に寄生する菌で一対になっているんですよ」



ざり、と。

背後で何かが動いた。


振り返ると、そこには鹿のような生物がいた。

だが、その首は異様に長く、背骨が外側に突き出ている。

皮膚はところどころ裂け、そこから白い筋肉が覗いていた。

その目は濁っている。


「あれはおそらくこの樹眼菌に寄生された木の果実を食べてしまった動物でしょうね。あのように、樹眼菌に侵された木の実を食べた動物は体内を樹眼菌に侵され徐々に腐り落ちていきます。そしてやがて動く屍になるんです」

「しかばね......」

「木に寄生した樹眼菌は、木に外敵が近づくと樹眼菌を寄生させた動物に知らせて木を守っているんですよ」

「すごい……」


アリスが一歩踏み出す。

その瞬間。

上から影が落ちた。


──バサァッ!!


巨大な羽音。

黒い塊が、鹿の上に落ちる。


それは鳥だった。

だが翼は羽ではなく、皮膜。

口は裂け、歯が並んでいる。

怪鳥は鹿の首に食らいついた。


ぶち、と音がした。

鹿は声もあげない。

ただ、脚を痙攣させながら、ゆっくりと崩れ落ちる。

血が地面に広がる。

苔がそれを吸い込む。


アリスは、動かなかった。

ただ、その光景を見ていた。


「……なんで?」


ぽつりと呟く。


「ころしたの?」

「ええ」


マリアは答える。


「食べるためです」


怪鳥はすでに肉を引きちぎり始めていた。

鹿の体は、ただの“食べ物”へと変わっていく。

やがて食べやすい大きさになった鹿の足を捕らえた怪鳥は翼をはためかせて飛び上がり暗い森の中に消えていった。


「ですが、あの怪鳥は樹眼菌に侵された死肉を食べてしまいました。おそらくしばらくすればばあの鹿のように身体を蝕まれ樹眼菌の木を守るためだけの死体になるでしょう」

「......」

「かわいそうだと思いますか?」


その言葉に、アリスはマリアを見つめる。


「食べなければいいと思いますか?」

「……」

「食べなければ、あの鳥は死にます」

「……」

「死ねば、今度はあの鳥が食べられる」


森は、静かだった。

けれどその静けさの裏で、無数の“命のやり取り”が行われている。


「これが、自然の理です」


アリスはしばらく黙っていた。

やがて、小さく頷く。


「……たべるのは、いきること」


その言葉は、どこか空っぽで。

けれど確かに、何かを理解し始めていた。

──その時だった。


ぴたり、と。


森の音が止まった。

鳥の羽音も、虫の気配も、水音も。

すべてが、消えた。


「……?」


アリスが顔を上げる。

マリアの手が、強くなる。


「……来ます」


低い声だった。

それは、これまで一度も聞いたことのない響きだった。

奥の闇が、揺れた。


木々の隙間。

光の届かない場所。

そこに、“何か”がいた。

それは、こちらを見ている。

樹眼菌の目が、一斉にそちらを向いた。


ざり……

ざり……


ゆっくりと、近づいてくる。

空気が、重くなる。

アリスの胸が、どくん、と鳴った。

それは恐怖ではなく──


「……すごい」


純粋な、興味だった。

マリアは、静かにアリスを自分の後ろへと引いた。


「……下がっていなさい」


闇の奥で、“それ”が牙を見せた。


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