婚約者は名前で呼ぶもの……なのですか?
「リリアーナ様、おはようございます!」
「まあ、アイリス様。ごきげんよう。」
学園生活にも少しずつ慣れてきた頃。
毎朝のようにアイリス・リーヴェルがわたくしを迎えに来るようになっていた。
(ふふふ。)
(ヒロインとこんなに仲良くなれるなんて。)
(破滅回避は順調ですわ!)
そんなことを考えながら歩いていると、
「リリアーナ様。」
聞き慣れた穏やかな声がした。
振り返れば、レオニス殿下が優雅に微笑んでいる。
「殿下、ごきげんよう。」
「今日は一緒に教室まで参りましょう。」
「あ、ずるいです!」
アイリス様がむっと頬を膨らませる。
「今日は私が先にリリアーナ様と約束していたんです!」
「それは存じています。」
「でしたら!」
「三人で歩けば問題ありません。」
「うぅ……。」
また始まりましたわ。
(本当に仲がよろしいですわね。)
そんなことを思っていると、後ろから二人の令嬢の声が聞こえた。
「王太子殿下は婚約者をいつも『リリアーナ様』って呼んでいらっしゃるのね。」
「少し他人行儀ではなくて?」
「婚約者なら呼び捨てでもいいのでは?」
その言葉に、わたくしは足を止めた。
呼び捨て?
貴族社会で?
そんなことを考えていると、
「確かに。」
レオニス殿下が静かに頷いた。
「婚約者としては、少し距離がありますね。」
「……え?」
嫌な予感がいたしますわ。
殿下はこちらを見つめ、
優雅に微笑んだ。
「リリアーナ。」
「…………。」
世界が止まった。
「り、り、り……!」
「どうしました?」
「リリアーナって呼ばれましたわ!!」
思わず両手で頬を押さえる。
婚約者だから?
それともイベント?
まさか好感度イベントなのでは!?
(いけませんわ!)
(ヒロイン用イベントを横取りしてしまいましたわ!)
一方。
レオニスは珍しく目を細めていた。
「やはり、その反応は可愛らしいですね。」
「か、可愛い!?」
「ええ。」
「~~~~っ!」
顔が熱い。
絶対に熱がある。
そうに違いない。
すると隣から、小さな声が聞こえた。
「……ずるいです。」
アイリスだった。
「私もリリアーナ様を呼び捨てにしたいです。」
「え?」
「だめでしょうか?」
真っ直ぐな青い瞳が見つめてくる。
そんな目でお願いされたら断れませんわ。
「よ、よろしいですわ。」
「本当ですか!」
アイリスは花が咲くように笑った。
「リリアーナ!」
「はい!」
その瞬間。
空気がぴたりと止まる。
レオニスが穏やかな笑顔のまま口を開いた。
「……随分と距離が近いですね。」
「リリアーナが許可してくださいました!」
「それは知っています。」
「では問題ありませんよね?」
「問題あります。」
「ありません!」
にこにこと笑う二人の間に、なぜか見えない火花が散っている。
周囲の生徒たちはひそひそと囁いた。
「王太子殿下が笑っていない……。」
「首席のアイリス様も譲る気がないわ……。」
「公爵令嬢を巡って対立している……?」
しかし当のわたくしは、
(まあ。)
(殿下とアイリス様が、こんなに自然に会話をなさっていますわ。)
(やはり運命のお二人ですわね。)
(わたくしが仲を取り持てば、破滅フラグは完全に回避できますわ!)
と、今日も盛大な勘違いをしていた。
そしてその日以降。
学園では、『王太子殿下だけが呼ぶことを許された名前を、首席令嬢アイリスも呼び始めた』
という噂が広まり、
本人だけが何も知らないまま、「リリアーナ」と呼ぶ人が少しずつ増えていくのだった。




