第75話 好意と正面から向き合う覚悟を
走り去っていく桜花に、俺は呆気に取られてしまう。
そのまましばらく経過し、首を振った。
「って、呆けてる場合じゃない!」
追うべきか否か……なんてのは後だ。
とりあえず、あんな危険な状態の奴を放置しておくのだけは、絶対に間違いだろう。
すぐにそう結論付け、俺は慌てて考える。
ここは二階だ。
急がなければ敷地外に出られて見失ってしまう。
咄嗟に廊下から下を見ると、早くも桜花はマンションのエントランスから飛び出す所だった。
マズい。
慌てて後を追う俺。
大急ぎで階段を降りると、そのままマンションを出て全速力でダッシュした。
と、そんな中で、つい場違い過ぎる不気味な笑みが漏れる。
——俺から逃げられると思ったら大間違いだぞ。
自分でも身の毛がよだつほどキモい事を考え、さらに口角が上がった。
だがしかし、無理もない。
何故なら、俺の唯一の長所は運動神経だからな。
足だって平均よりかなり速い部類なわけで。
運動音痴の女子高生に追いつくなど、ハンデがあっても朝飯前なのである。
そして思った通り、走り始めてすぐに彼女の姿を視界の端に捉えた。
やはり運動は苦手なようで、一生懸命走ってはいるが足取りもおぼつかない様子だ。
「ちょ、ちょっと待ってくれッ!」
言いながら、俺は速度を緩める。
あと少しで手が届きそうな距離までやって来たため、対話を試みたわけだ。
驚かせないようゆっくりと、話し合おうとした。
——が。
「う、うわぁぁぁッ!」
計算ミスだった。
というか、速度を落としたのが仇になった。
丁度、横断歩道の信号に捕まってしまったのだ。
「お、おい! 馬鹿! 待て!」
と、律儀に止まる俺と違って桜花は爆走。
車の気配は皆無なため事故る事はなかったが、危険極まりない行動である。
「立派な道路交通法違反……ッ! 凶悪犯罪者だ……」
呟きつつ、残された俺は一旦息を整えた。
あそこの無法者と違い、俺は法令順守の真人間だからな。
こんな時でも追いかけられない自身に少し情けなく思うが、それでも赤信号を突っ切る判断には至らなかった。
だって車が来たら怖いんだもの。
それに、先程も追いつけたわけだし、青信号になってからでもまた追いつけるだろう。
今の一瞬で、そう結論付けていた。
なんて……一体何をしているんだろうな。
唐突に始まった謎のチェイスに、ため息を吐く。
信号が青になり、俺は再び走り始めた。
そこら辺のチャリより早いんじゃないかっていうペースで、全力で辺りを捜索する。
異変に気付き始めたのは、大体十分くらい走ってからだ。
「……ど、どこにいった?」
おかしい。
絶対にありえない。
これだけのペースで走り続けて、本来見失うわけがないのだ。
一向に姿を捉えられず、俺は困惑していた。
どこかで自転車か車にでも乗ったのかと、疑い始めたくらいである。
そのくらい、アイツと俺の走力の差を考えると、あり得ない状況なのだから。
仮に乗り物を使っているのなら、もう追いつくことは不可能だろう。
ダメ元で連絡してみるも、当然返信はない。
なんなら既読すらつかない。
「鬼ごっこするにしても、流石に交通ルールは守ってもらわんと、ただのかくれんぼになるんだぜ? お嬢さん」
虚空にぶつくさ言っている俺は異常者だろうか。
この際、もうそんな世間体すらどうでもいい。
とりあえず、周辺の店を覗いてみる事にした。
どうしても車に乗ったとは考えづらかったため、若干の望みをかけて、店の中を探す事にしたのだ。
コンビニや本屋など、アイツが入りそうな店は片っ端。
とは言え、数は知れているからすぐに確認し終える。
はぐれてからさらに十分くらい経った頃には、この蒸し暑い季節に完全に肝が冷えていた。
「……やっぱ、押しかけるのは迷惑だったかな」
流石の俺も疲れてきたので歩きつつ、反省する。
勿論、何度も言うように考え無しに会いに行ったわけではない。
だがしかし、彼女が外出していたこともあり、丁度タイミング悪く鉢合わせる事になってしまったのは事実だ。
となると、俺の『嫌なら居留守を使えばいい』は前提から破綻してしまったわけで。
桜花も困るのは当然だろう。
……やっぱり、やる事為す事全てが上手くいかない。
元々頭脳戦は向いていないのだ。
この数ヶ月で痛感した。
自身の浅はか過ぎる考えには、毎度反吐が出る。
日が傾いてきたこともあり、一旦マンションに戻ろうとする俺。
追いかけたはいいものの、元はと言えば俺のせいで逃げ出したのだ。
ここまで見つからないなら、一度向き合い方を考え直した方が良いかもしれない。
——なんて、思っていた時だった。
後ろから駆け足で何かが迫ってくる気配を感じ、首を傾げる。
そのまま振り返ろうとしたところ、突撃された。
「ッ!?」
つい一ヶ月ほど前、刺された俺だ。
その時の衝撃がフラッシュバックして、頭が真っ白になった。
殺されたと思った。
がしかし、衝撃はいつまで経ってもやって来ず、ビビって閉じていた目をゆっくり開く。
気付けば俺は、抱きしめられていた。
「……はぁっ、はっ、はぁ……なん、で? ……なんで、追い抜かすのよ」
「……いやその、先に行ってるのかと思って」
「……横断歩道渡ってすぐのコンビニで、トイレに行ってたの。はぁ、はぁっ……元々我慢して帰って来てたんだから。あんたのせいよ……ッ」
「それは本当にすみませんでした」
謝ると、絞め殺されるんじゃないかって程に腕に力を込められた。
はぁはぁと息遣いが荒いし、傍から見たら逆痴漢である。
俺の走るスピードに追い付こうと、一生懸命走っていたのだろう。
にしても、間抜けな話だ。
自分が鬼側だと思っていたが、途中から逆になっていたらしい。
「信号は守ってくれよ。心配するだろ」
「……あ、あんたが追いかけてくるからでしょ。あそこ、いつも車の通りほぼないし。それに、のんきに捕まってたら漏らしちゃうじゃない」
「そこまでギリだったのか」
「そうよ。……来てくれるとか、思ってなかったんだから」
どうも、ただトイレに行きたくて走っていただけらしい。
俺という存在から逃げているのかと思っていたため、少し安心した。
流石に顔を見るなり逃げられるのはショックだからな。
そして彼女の柔らかい言い回しに、俺はほっとして笑ってしまった。
どうやら、いつも間違いだらけの俺だが、今日会いに来たのは正解だったらしい。
多少無理したが、話をしに来てよかった。
「待ってた」
「じゃあ連絡くらい返してください」
頬を掻きながら言う俺。
依然抱きしめられたままなので、流石に気まずい。
彼女の柔らかい体が押し付けられて、さっきまであんなに焦っていたのが不思議なくらいに、落ち着いてくる。
と、桜花はそのまま俺の背中に顔を埋めた。
「……好き」
「……うん」
俺の言葉は無視する形で、顔も見ないままに告げられる。
それに俺は頷き、ようやく本当の意味で覚悟を決めるのであった。
そう、今日は何しろ、俺もこの話をするために会いに来たのだから。
——自身が今まで必死に避けてきた、恋愛そのものと向き合う覚悟を胸に、俺は引きつった笑みを浮かべるのであった。




