図書準備室の伏兵、あるいは完璧なるデジャブ
五月の下旬。中間テストが終わり、学校全体に少しだけ初夏の気だるさが漂い始めた放課後。
いつものように旧校舎の図書準備室に向かった俺は、扉を開けるなり思わず足を止めた。
窓際の特等席、いつもなら真っ先に陣取っているはずの篠原翠がいない。代わりに、その席の近くにある古い書架の陰のに、本来なら誰もいないはずのその場所に、見慣れない小さな背中がうずくまっていた。
羽沢紡。
小柄で可憐な容姿から、校内でも「おとなしい系のクラスのアイドル」として絶大な人気を誇る少女だ。艶のある茶髪気味のボブカットに、大きな瞳。物静かで控えめな彼女とは、去年のクラスが一緒だったから顔見知りではあるけれど、今年はクラスが離れている。
(……っていうか、なんであいつがここに?)
旧校舎のこの部屋が今回の掃除対象になっているなんて、彼女は知るはずもない。だからこそ、誰も来ない安全地帯だと思って入り込んでしまったのだろうか。
窓際にしゃがみ込んだ羽沢は、持っていた文庫本を胸に抱え込み、何やらブツブツと呪文のような独り言を呟いていた。
「……ぐぬぬ、ここで主人公が『お前以外に見えない』とか言っちゃうの、王道すぎて最高に血糖値上がるんですけど……いやでも、この前の巻の引きからすると、次で絶対すれ違いが発生するやつですやん……あぁ、神様、私にあと三冊分の読書用酸素を……」
なんだこの言葉遣い。古のオタクを連想させる。この儚げな美少女が、普段はかけない眼鏡を身に着け、「ガチのライトノベルを抱えて悶絶している姿など、学校の誰も想像がつかないだろう。
「おい、羽沢」
俺が声をかけた瞬間、羽沢の動きがピタリと凍りついた。
「な、……なんで、東白くんが……?」
羽沢はガタガタと震えながら、床に落ちた自分の文庫本と俺を交互に見た。
いつも学校で見せるあの物静かで優雅な笑顔はどこへやら、今の彼女は、自分の最大の急所を完全に握られた小動物のような怯え方をしていた。
こんな姿を健全な男子高校生が間近で見てしまったらきっと新しい扉が開けてしまうことだろう。
ていうか、あの羽沢が「ふえっ!?」みたいな情けない声を出すところを初めて見た。人間、焦ると声のトーンが三段階くらい上がるらしい。
「いや、今日の掃除当番が俺だからだけど。それよりお前、ここで何やってんだよ」
「なっ……!」
言葉を失った羽沢は、俺の手に握られた掃除用のほうきと、自分の足元にあるボロボロのラノベを交互に見比べた。
自分が「誰も来ないはずの旧校舎の準備室」で、よりによってガチのラブコメ布教本を抱えて悶絶しているところを、去年のクラスメイトである東白くんに見事に見抜かれたと脳内で処理が追いついたらしい。
なんだ?ここの教室は何か隠れオタクを引き寄せる力でもあるんだろうか。
「……もしかして」
羽沢はスルスルと青白い顔になりながら、潤んだ大きな瞳で俺を見上げた。正直可愛い。
「東白くん……今の私の見苦しい姿、ぜ、ぜんぶ見られてたの……?」
「見苦しいって言うな。まあ、主人公がどうこうって悶えてるところから全部バッチリな」
俺が冷めた目で指摘すると、羽沢は「あわわわ……」と両手で自分の顔を覆い、その場で体育座りのまま小さく丸まった。
「まあ、安心しろ。お前のその……なんだ、ラノベ読んでた件は誰にも言わないから」
「ほ、本当……?」
指の隙間からこちらをチラリと覗き見る羽沢の瞳には、ほんのりと涙が浮かんでいた。クラスの男子たちが知ったら全校集会が開かれそうなほどの絶望顔である。
「ああ。誓うよ。だから、そんな怯えた目で見るな。俺がまるで不審者みたいだろ」
「不審者は間違いなく私だよ……!」
羽沢は力なくうなだれ、それから恐る恐る立ち上がって自分のスカートの埃をパタパタと払った。
おっとりとした普段の優雅さはどこへやら、今の彼女はただの「秘密を共有してしまったクラスメイト」の怯えた一般オタク少女だった。なんだこの既視感
「……にしても、羽沢。お前がそんなガチのラブコメ読んでるなんてな。去年のクラスじゃ全然そんな素振り見せなかったじゃん」
俺が何気なくそう言うと、羽沢はピクリと肩を震わせ、気まずそうに目を泳がせた。
「そ、それは……私だって、学校で生き残るための処世術とかがあるんだよ〜……。やっぱり、こう、おっとりした良い子ちゃんでいないと、色々とめんどくさいじゃん? だから、誰にも言えない趣味は、こうして誰もいない旧校舎の隅っこでひっそりと満喫するしかないんだよ……」
どこか情けなそうに、でも少し潤んだ瞳で言い訳をする羽沢の姿を見て、俺は思わず遠い目をしながら窓の外に視線を逸らした。
(……なんだこれ。デジャヴか?)
「……なに、なんでそんな生暖かい目で見つめるの」
「いや。つい最近、まったく同じような光景を見た気がしてな」
同じ場所で、似たような学園のアイドル美少女が似たようなことを言っていた光景を思い出して、俺は小さく息を吐いた。
静まり返る図書準備室。まさか、俺の「平和な放課後」に、もう一人の同類(しかもよりによって学校のアイドル)がこうして追加されてしまうとは、今年の俺の運勢は一体どうなっているのだろうか。




