放課後の処方箋
前日の夕暮れ。旧校舎の図書準備室。
「お互い、これ、秘密にしましょう。絶対に、墓まで持って行くんです」
「了解だ。契約成立だな」
そう言って、俺たちはその日の密会を切り上げた。
校舎を出るまでは「とんでもねぇ爆弾を抱えてしまったな」という冷や汗と、「まぁ、お互い口を割らなけりゃいいだけの話だ」という諦めが半々だった。
だが、問題は翌日――つまり今日の放課後だった。
いつも通りHRが終わり、日直の黒板消しを終えた俺は、自分の席でカバンに教科書を詰めていた。
「なあ楽、今日部活ないなら、駅前の新しくできたゲーセン行こうぜ」
斜め前の席から声をかけてきた蒼に、俺は「いや、今日ちょっと用事があるからパスで」と適当に返して断る。
「用事? お前が? また家でダラだら漫画読むだけだろ」
「うるせぇ、帰るんだよ」
蒼を適当にいなして教室を出たものの、廊下を歩く足取りは妙に重かった。
(……行く必要なんて、本来はないはずだ)
昨日で話はついた。向こうだって顔を合わせたくないだろう。今日はまっすぐ家に帰って、いつも通り平和な夜を過ごせばいい。
そう頭では分かっているのに、足はなぜか、本館から離れた旧校舎へと向かう通路の前に立っていた。
(いや、待て。もしあいつが昨日の一件で怯えてて、一人で悩んでたら……って、そんなわけないか。クラスじゃあんなにアイドルやってるんだし。けどたぶんあいつかなりポンコツな部類だし…)
もう自分の中で彼女は学園のアイドルではなく、ただのポンコツオタク娘なため、心の中ではあいつだの篠原だのと呼び方が適当になっていた。
葛藤しながらも、気づけば俺の手は、旧校舎二階の『図書準備室』の引き戸にかけられていた。
鍵は閉まっていない。開けようと思えば、いつでも中に入れた。
「……別に、様子を見に来たわけじゃない。昨日片付け途中だった書架の続きだ」
自分にそう言い訳をしながら、俺はガラリと引き戸を重く開けた。
部屋の中には、昨日と同じ埃と古い紙の匂いが漂っていた。
西日が差し込む窓際。
そこには――昨日と同じように、木製の古い机を向かい合わせにして、小さく背中を丸めている制服姿があった。
篠原翠だった。
彼女は膝の上に一冊の本を開いたまま、こちらを振り返るでもなく、じっと窓の外を眺めていた。
この距離から眺める彼女はとても美少女で。昨日条約を交わした彼女とはとても思えなかった。
足音で気づいたのか、ゆっくりとこちらを向いた彼女の顔は、昨日見た真っ赤なパニック顔でも、クラスで見せる完璧なアイドルスマイルでもなかった。どこか気まずそうで、でも、少しだけホッとしたような、そんな複雑な表情だった。やはりちゃんとしてれば美人だ。
「……遅いですよ、東白くん」
最初に口を開いたのは、彼女の方だった。
その声は、昨日までのツンとした尖り方が少し削ぎ落とされていて、どこか拍子抜けするほど静かだった。
「……悪かったな。部活の用事があったんだよ」
「嘘ですね。東白くんが帰宅部なのはクラス名簿で知ってます」
「……」(何で知ってんだよ。何?ストーカー?俺のこと好きなの?)
思いがけない言葉をかけられ固まる俺を見て、彼女は小さくフッと息を漏らした。それだけで、昨日の修羅場のような空気が、嘘のように溶けていくのが分かった。
「……昨日は、その……大声出して、ごめんなさい」
「いや、俺もデリカシーのないこと言ったからお互い様だろ。……で、なんだよ。今日もここで一人でコソコソ読んでるのか?」
俺が少し呆れたように言うと、篠原はバツが悪そうに視線を泳がせたあと、自分の机の上に置いてあった冊子をトントンと指差した。
「コソコソしてません! ……その、昨日の続きです。あなたが『現実にあるわけない』って鼻で笑ったシーン、あそこから主人公がどうやって自分の気持ちに向き合うのか、ちゃんと最後まで読んでもらわないと、私の気が済まないんです」
「は? なんで俺がそんな……」
「約束しましたよね? 私のこの秘密を墓まで持って行くなら、私のプライドを傷つけた罰として、私の『推し』の尊さを理解する義務があります!」
「なんだその理不尽な条約は!」
昨日結んだはずの「秘密保持の契約」に、勝手にとんでもない特約が追加されている。
だが、そのときの彼女の目は、昨日みたいな涙目ではなく、妙に生き生きとしていて、そして――どこか楽しそうだった。とてつもなく断りづらい。
俺はため息をつきながら、彼女の向かい側の席に、重い足取りで腰を下ろした。
「……で、どこから読めばいいわけ?」
「ここです。このページから、一言一句逃さず読んでください」
「はいよ」
差し出されたページをめくると、昨日とは違う、けれど相変わらず不器用ですれ違っている主人公たちの姿があった。
渋々ページをめくる俺を横目に、篠原は満足げに小さく頷き、自分の分の本を開く。
パラパラ、と乾いた紙の音が静かな図書準備室に響く。
最初は「なんで俺がこんなものを……」と斜に構えていたはずなのに、文章を目で追っていくうちに、不思議と昨日のあの強烈なセリフが脳裏によみがえってきた。
『現実の人間がこんな綺麗にすれ違うわけねぇだろ』
昨日の俺のその言葉を思い出しながらページを進めると、確かに、主人公の男の子の言い訳は絶望的に下手くそだった。言いたいことがあるなら最初から言葉にすればいいのに、プライドが邪魔をして余計な一言を口走ってしまう。こーゆー人はまあ現実にもいるな。
「……なぁ」
ん、と篠原が顔を上げる。
「この男、アホだな。ここで『お前が好きだ』って一言言えば済む話だろ。なんでわざわざ『お前みたいな奴は面倒くさい』とか言うんだよ」
俺が呆れたように呟くと、篠原はパッと目を輝かせ、身を乗り出してきた。
「そうなんです! そこなんですよ! そこでああ言っちゃうのが彼の悪い癖なんですけど、でも、だからこそ可愛いっていうか……! 不器用だからこそ、自分の気持ちに素直になれなくて空回りしちゃうんです!」
「可愛いって……男だろ、こいつ。もっとスマートに生きろよ」
「スマートだったら物語になりません! ほら、次のページ読んでください。ここから彼女の反撃が始まりますから!」
さっきまでの気まずさや警戒心が、いつの間にか綺麗に消え失せていた。
気がつけば、俺たちは木製の机を挟んで、キャラクターの行動について真剣に(そして少しくだらない熱量で)意見を交わしていた。
どれくらい時間が経っただろうか。窓の外の夕日が、オレンジ色から深い群青色へと変わり始めている。
「……っと、もうこんな時間か」
壁に掛けられた古びた時計の針を見て、俺は思わず声を上げた。
もうすぐ下校時刻のチャイムが鳴る頃だ。思ったより熱中してしまったらしい。少女漫画のような美男子はなかなかいないが、似たような性格の人間は意外といるし、現実に絶対にないというわけでもないのかもしれない。
俺の声に、篠原はハッとしたように窓の外を見て、それから少しだけ名残惜しそうな顔をした。
「……そうですね。そろそろ、帰らないと……」
彼女は閉じた本を丁寧にかばんにしまい、立ち上がった。
俺も自分の椅子から腰を上げる。昨日までの「この関係をどう終わらせるか」という焦りはなく、ただ、妙に名残惜しいような、不思議な気だるさが胸の奥に残っていた。
「おい、篠原さん」
準備室の出口に向かおうとしたところで、俺は足を止めて振り返った。
「……なんですか?」
「その……明日も、ここに来ればいいのか?」
自分で言って、少しだけ柄にもないことを聞いた気がして恥ずかしくなった。
だが、彼女はその質問を聞いて、ふっと柔らかく、今日一番自然な笑みを浮かべた。
「……別に、強制はしませんけど。あなたが読みたいなら、その続きの巻を用意しておいてあげてもいいですよ」
「上から目線だな。……まあ、気が向いたらな」
そう言って、俺たちは図書準備室をあとにした。
本館へと続く薄暗い廊下を並んで歩く。もちろん、すれ違う生徒がいれば少し距離を取るし、会話のトーンも落とす。学校の中では、俺たちはあくまで「クラスの隅の男子」と「高嶺の花の女子」のままだった。
だけど、昇降口で別れ際に交わした「じゃあな」「また明日」という言葉の響きは、昨日までのそれとは少しだけ違っていた。




