7・八百比丘尼
海に面する山地や台地が波に削られて形成された急斜面を海食崖といい、さらにそこが波に浸蝕されてできた洞窟を海食洞と呼ぶ。
人目に触れにくいそこに倒れていた透を発見したのは、たまたま近くで漁をしていた漁船の漁師だった。
漁船で陸まで運ばれた透は、さらに救急車で隣街の総合病院へ搬送され、ただちに集中治療室に入れられた。高熱から肺炎を起こし、肺炎を起こした菌が脳にまで達し、重い脳炎を発症していたのだ。
一週間、意識が戻らなかった。
主治医は最悪の事態に備えるよう祖母に伝え、会わせておきたい人がいれば呼び寄せるようにも忠告した。祖母の連絡で海外出張中の父は急きょ帰国したが、透はいっこうに目を覚まさなかった。
さらに一週間が経ち、誰もがもう駄目ではないかと思い始めた頃、透は目覚めたのだ。
(嘘だろ?)
祖母に泣きながら経緯を聞かされ、真っ先にそう思った。
透が発見された海食洞は、陸地から入るには急斜面を下るしかない。ロッククライミングのベテランでも難儀しそうなそこを、高熱を出した子どもが下れるわけがない。実際、透もそんな真似をした記憶はなかった。
警察は何者かが透を誘拐し、置き去りにした可能性もあると見て捜査したが、犯人は発見されなかった。誰もが知り合いの小さな街では、人間の目が監視カメラ代わりだ。よそ者は必ず誰かの目に触れる。意識のない子どもを抱えていれば、誰にも見つからず移動するなど不可能だ。
住人は皆、よそ者も不審者も見ていないと口を揃えた。潜伏できそうな空き家や納屋なども徹底的に捜索されたが、誰も見つからず、捜査は打ち切りとなった。
透も警察官から執拗に問いただされたが、覚えていないものは覚えていないとしか言えず、結局、今にいたるまで透があんな場所で倒れていた理由は謎のままだ。
だが、警察以上に混乱したのは透を治療した病院関係者だった。
脳炎は脳の広範囲に及び、意識を回復したとしても重い後遺症が残ると思われていた。だが透には何の後遺症も残らなかったどころか、不可逆的なダメージを負ったはずの脳が綺麗に完治していたのだ。
『後遺症が……ない?』
『認知機能も正常です』
『MRIでも異常が見当たりません』
病院はちょっとしたパニックに陥り、透は何度も追加の検査を受けるはめになった。それでもどこにも異常が見つからず、最終的には『医学的に説明困難』『極めて稀な回復例』と結論付けられ、退院が許されたのだ。
『八百様が、お助け下さったのかもしれんねえ』
そう、ぽつりと呟いたのは祖母だった。
八百様――八百比丘尼と呼ばれる伝説の女性だ。地方によって呼ばれ方もまちまちだが、祖母の生まれ育った地域では八百比丘尼、八百様と呼ばれ親しまれている。
八百比丘尼の逸話は日本各地に散見されるが、大筋は同じだ。人魚の肉を食べてしまったことにより不老不死になった娘が老いず死なない己をはかなんで出家し、各地を巡った。
その最期も逸話により様々だが、祖母の生まれ育った地域では、飲食を絶って死ぬことを決意した八百比丘尼が鈴一つだけを持ち、洞窟にこもったという。鈴の音が聞こえなくなったら私は死んだと思って欲しい、と言い残して。
鈴の音は十日ほどで聞こえなくなり、人々は八百比丘尼の死を悟った。彼女が最期を遂げたその洞窟こそ、透が発見されたあの海食洞だったのだ。今では神聖な場所として祀られ、年に一度、近所の神社から宮司が供養に訪れるという。もちろん船に乗って、だが。
『あんた、本当に何も覚えてないの?』
父が出張先に戻り、再び二人での暮らしが始まった夜、祖母は透に尋ねた。その顔が好奇心でも恐怖でもなく、心から自分を案じてくれているとわかったから、透は打ち明けずにはいられなかった。
本当は、少しだけ覚えていること。
波の音。鈴の音。
『どうか生き延びて』と囁く、優しくも哀しい声。
そして――。
『これは……』
透が突き出したてのひらに載る小さな銀の鈴に、祖母は目を見開いた。これが透の持ち物ではないことは、祖母ならすぐにわかる。
透は説明した。
『退院する日の朝、起きたら握ってたんだ』
もしも集中治療室で意識を取り戻した時に握っていたら、間違いなく医師か看護師に発見され、取り上げられていただろう。それを避けるため、わざわざ透が誰にもバレずに持ち出せるタイミングを狙って持たせたとしか思えなかった。
……あの、優しくも哀しい声の主が。




