6・鈴の音
「はあ、疲れた……」
一人暮らしのアパートに帰り着くなり、透はリュックを放り出し、ベッドに倒れ込んだ。腹は減っているが、食事の支度をする余裕もない。
グループLimeに登録し、用は済んだとばかりに要は去っていった。その後に一騒動あったのだ。
『どうしてあんな奴を勧誘したんだよ!』
『絶対、九条目当てのにわかが湧いて出るぞ!』
案の定山田と高橋にはぎゃんぎゃん責められた。ことの次第を聞いた部長は『あの九条がうちに? エイプリルフールはもう終わったぞ』と笑っていたが、グループLimeに九条が追加されているのを確認するや表情が抜け落ちた。
さらに要の入部を聞きつけた耳ざとい学生たちが公式イソスタに殺到し、瞬く間にフォロワーが文字通り桁違いになったかと思えば、入部希望のメッセージが増え続けている。来週は月に一度の活動日だが、狭い部室に入部希望者が詰めかけると事故が起きかねないので、当面の間はLimeのみでの活動となった。
全員を入部させるのはもちろん無理なので、本物の歴史好き以外はお断りすることになる。そのあたりの見極めとお断りの連絡は部長の仕事だ。さすがに申し訳ないので、透も手伝いを申し出た。
『波座くん、困ったことがあったら相談してね。Limeでも電話でもいいから』
千歳だけは終始透を心配してくれた。出逢った頃から彼女はそうだ。歳の離れた弟がいるとかで、童顔の透が重なるらしい。高橋と山田の当たりが少し厳しいのは、千歳が透を特別扱いするせいかもしれない。
……本当に色々ありすぎた一日だった。
だが透の頭を占めるのは山田と高橋の怒声でも、そのうち過労で倒れそうな部長でも、千歳の優しい微笑みでも、圧倒的な存在感を放っていた要でもない。
「鳴った……、よな?」
透は胸元を探り、チェーンに通した鈴を目の前にかざした。親指の先ほどの大きさの丸い銀色のそれには、文字とも柄ともつかぬ不思議な模様が蔦のように絡まっている。
チェーンの部分を持ち、ゆらゆらと何度も揺らしてみるが、鈴は鳴らない。これまでの十年間、そうだったように。
だが、あの時――要が透を見つけたあの瞬間、鈴は確かに鳴ったのだ。リィン、と、高く澄んだ音をたてて。
リィン、リィン、リィン……。
初めて聞いたはずの鈴の音が、記憶の奥底に眠るそれと重なる。
今でこそ健康そのものの透だが、十歳くらいまでは病弱で、一年の半分はベッドで過ごすような子どもだった。
十歳の頃、透の父親は海外に赴任することになり、母親はすでに亡くなっていたため、透は父方の祖母の家に預けられることになった。
祖母の家は福井県の海沿いの街にあり、東京住まいの透はそれまで祖母とは物心ついて以来会ったことがなかった。知らない場所で初対面も同然の祖母と二人で暮らす。当初は不安しかなかった。
だが穏やかな祖母との田舎での暮らしは、意外なほど透の性に合った。読書家の祖母の家には大量の蔵書があり、祖母お勧めの歴史小説を読み漁った。透の歴史好きは間違いなくこれがきっかけだ。
透の体質は多少マシにはなったものの、相変わらず健康とは縁遠く、時折熱を出しては布団で過ごしていた。祖母の蔵書のおかげで、苦にはならなかったが。
その日はいつもより高い熱が出て、心配した祖母が診療所から先生を呼んでくると言って出て行った。それを透はぼんやりと見送り、目を閉じたら深い水底へずぶずぶと沈んでいくような感覚に襲われて……。
リィィィ、ン……。
鈴の音が聞こえた。
『どうか……、どうか、生き延びて……』
ひたひたと打ち寄せる波に混じる、優しくも哀しい声と。
頭を撫でる柔らかな手と。
そっと握らされた、小さな冷たい感触だけ。
身体に巣食っていたどろどろしたものが溶かされてゆき、その心地よさに目を閉じた。
そうして。
『透、透っ! ……ああ、目を覚ました……!』
次に目を開けたら、祖母が泣いていた。
隣では海外にいるはずの父が涙ぐんでいて、透は何本もの管につながれ、病院のベッドに寝かされていた。波の音の代わりに、ピッピッというモニターの規則的な音と、医療関係者が忙しなく動き回る足音が聞こえた。
……祖母が言うには、診療所から医者を連れて戻ると、透の姿は家の中のどこにもなかったらしい。
祖母は駐在所に駆け込み、近所の住人総出で捜索が始まった。海辺の田舎町にはろくに防犯カメラもなく、人力に頼るしかなかったのだ。
数時間後、透は発見された。
波の打ち寄せる崖にぽっかりと空いた、小さな洞窟の中で。




