Ep.66 偽りの閨事
初夜の日から、二月が経とうとしている。
窓から差し込む陽光はレースのカーテンに遮られ、室内には柔らかな暖かさが満ちていた。
初夜から数日の休息を経て、ハインリヒは早々に公務へと戻り、私もまた王太子妃としての職務を再開した。
あの日から二日も経てば、体の怠さも筋肉痛もなくなり、婚姻前と変わらず、朝食をハインリヒと共に摂り、執務の合間にはお茶の時間を設ける。
晩餐は日によるけれど、彼が遅い夜や月のものの期間を除き、閨事がなくても、私は『夫婦』として同衾という名の義務を果たし続けている。
ハインリヒは、『初夜』に何が起きたのか…… 何一つ気付いていないようだ。
『初夜』は間違いなく完遂された。
破瓜の証も、子種が注がれていたことも、公的に『証明』されている。
お姉様が開発された『蜂蜜酒』は、確かに気分を高揚させる『媚薬』に近い効果がある。
けれど、本当の狙いはグラスに仕込まれた『水薬』と、寝室に焚かれた『香』にあった。
単体で調べたとしても、ただの滋養強壮や精神安定の効果しか検出されないけれど、この二つが合わさることで強烈な酩酊と幻覚を引き起こし、意識を朧気にする。
それでいて、数時間で跡形もなく体内から排出されるという代物なのだ。
『蜂蜜酒』は、無駄に女性にだけ負担をかける『媚薬』を避ける為の物に過ぎない。
あの日⸺⸺ 私が押し倒された後、酩酊状態に陥ったハインリヒが抱いたのは、私ではない。
彼に充てがったのは、お金で買った『処女』の娼婦だ。
魔法契約の縛りがある以上、愛妾となり得る未婚の貴族令嬢や未亡人は使えない。
けれど、お金で買える『娼婦』は別だ。
私は前もって、帝国と国内にある高級娼館を探らせ、私の髪色や体型に近い、『処女』の娼婦を数人確保させた。
ブロンドの長い髪を持つ娼婦は、必然的に『元貴族』の娘に限られる。
多少の違いは、薬で混濁した意識なら容易に誤魔化せた。
彼女たちは、娼館に売られた時点で既に貴族ではなく、娼館の『所有物』となっている。
身請けされない限り、彼女たちがハインリヒの『愛妾』になることは出来ず、更に、余計な感情を抱かないように複数人用意させた。
関係者全員に『他言無用』の魔法契約で固く縛り、帝国語や皇族の所作も徹底的に教え込ませた。
ここまでの入念な準備のもと、迎えたあの日⸺⸺。
ハインリヒが寝室で娼婦と睦み合っている間、私は別室で『夫』と結ばれ、彼が目を覚ます前に入れ替わって『錯覚』させたのだ。
私は紅茶を一口味わい、静かにカップをソーサーの上に置いた。
たった一日ではあるけれど、宿ったかもしれない命を愛おしむかのように、自分の下腹部へそっと掌を添える。
心は凪いでいて、自然と口元が緩んだ。
長年の悲願が叶い、愛する『夫』と結ばれた悦び。
あの夜は、私の人生で最も幸せなひとときとなった。
私が身ごもるのは、間違いなく『夫』との子だ。
もちろん、すべてが予定通りにいくほど甘くはないことも承知している。
王族は確実に妊娠出来るよう、月のものの周期に合わせた閨を共にする『義務の日』が定められている。
それだけで済めばいいのだけれど、ハインリヒは閨事による快楽を覚えたばかりの『獣』も同然だ。
口付けまでは、一万歩譲ればまだ耐えられる。
けれど、『義務の日』以外の不意の同衾で、娼婦の手配が間に合わず、ハインリヒに触れられることになってしまったら……。
そんな状況を想像しただけで⸺⸺ 胸の奥が嫌悪感で真っ黒に染まっていく。
自然と眉間に力が入り、私はソファの肘掛けに頬杖を突いて苛立ちを抑え込もうとした。
「……妃殿下。何かお悩みでございますか?」
専属侍女が、私の表情が変わったことに気付き、問いかけてきた。
彼女は私の思考を正確に汲み取ることができ、淡々と完璧に仕事をこなす。
そして、私に絶対的な忠誠を誓っている腹心だ。
「……閨のことを考えていたのよ」
端的に答えたその言葉だけで、彼女はすべて理解したらしい。
お姉様が手配した『影』や、ハインリヒの周囲に潜ませた私の手の者の報告で、同衾になりそうな日は事前に把握している。
けれど、ハインリヒの気まぐれという『不確定要素』までは防ぎ切れない。
「とりあえず、即位までは陛下からの公務の引き継ぎで、同衾の回数は抑えられるでしょうけれど……」
何事にも、『絶対』はない⸺⸺。
現国王が退位し、ハインリヒが即位するまで、あと四ヵ月ほど。
それまでには、どうしても身ごもりたい。
そんな私の焦燥を察したのか、侍女が真剣な眼差しで口を開いた。
「妃殿下。 ……一つ、ご提案がございます……」
彼女の『提案』は理に適ってはいた。
私も、それを考えなかったわけではない。
ただそれは同時に、すべてが露呈する危険を孕むものでもある。
それでも、少しでも可能性が高まるなら⸺⸺。
「……そうね。 それしか方法がないわね」
希望的観測や確率に縋るわけにはいかない。
お父様やお姉様、既に大勢の人の手を借りているこの計画を、こんなところで台無しにするなど絶対にありえない。
「お姉様に手紙を書くわ。 ……届けてくれるかしら?」
「承知いたしました」
私が『夫』に視線を向けると、彼は跪き、恭しく頭を下げた。
⸺⸺⸺
初夜を終えて以降、私の日常は結婚式前にも増して多忙を極めていた。
父上からの公務の引き継ぎに加え、地方視察の案件も重なり、片付けなければならない書類がデスクの上で山積みになっている。
そんな中でも、私はヴィクトリアとの時間を何とか捻出していた。
夜中に執務が終わることも増え、すやすやと眠る彼女を起こすのは忍びなく一人寝をすることもあるが、その分、閨を共に出来る夜の悦びは格別だった。
ヴィクトリアも閨事に慣れてきたのか、初夜の時よりもどこか大胆になったように感じる。
ただ、疲労が溜まっているせいか、行為の最中はいつも夢うつつになる。
翌日、目を覚ませばそこには確かな情事の残滓があり、閨事があったことは疑いようもない。
意識がふわふわとしながらも、ヴィクトリアの柔らかくて長いブロンドの髪や柔肌の感触、甘い鳴き声、そして強烈な快感の記憶だけが鮮明に焼き付いている。
一度始まってしまうと欲求が抑えられず、つい何度も求めてしまい、彼女に多少無理をさせてしまっている自覚もあった。
「即位すれば、この忙しさも落ち着くだろう……」
そう自分を奮い立たせ、私は日々をこなしていった。




