Ep.62 結婚式
暖かな五月の麗らかな日⸺⸺。
社交期間が本格的に始まった頃、ついにハインリヒ王太子とヴィクトリア皇女の結婚式の日を迎えた。
諸外国の貴賓たちは既に各々の滞在先へ到着し、王城内も朝早くから喧騒に包まれていた。
その中心にいるのは、本日の主役であるヴィクトリアだった。
朝目覚めた瞬間から式の準備が始まる。
湯を浴びて全身を磨き上げ、化粧と髪を完璧に整え、何よりも、誰よりも、美しく着飾らなければならない。
詰まりきった予定の中で食事を摂る時間は皆無に等しいが、そもそも、コルセットで限界まで締め上げられた身体に、余計な食べ物を受け付ける隙間などなかった。
だが、帝国皇族として数多くの式典をこなしてきたヴィクトリアにとって、この程度の苦痛を我慢することなど慣れたものだ。
「……ついに、今日なのね」
私は、お姉様が王城の料理人に手を回して用意させた小ぶりなサンドイッチを口に運んだ。
この程度の大きさであれば、ドレスのラインに響かないことも計算されたのだろう。
鏡に映る私の頬は微かに上気し、恍惚とした表情を浮かべている。
まだ少女と呼ばれる幼い頃から夢見てきた。
一度は叶わぬ夢なのだと諦めかけたことが、今、現実となろうとしている。
自然と口元が緩むのは、どうか許して欲しい。
纏ったドレスは、軽いけれど艷やかな輝きを放つ真っ白な生地に、微細なダイヤと真珠が縫い込まれ、肌が見えないように腕はレースで編まれた豪奢な一着だ。
陽光を浴びる度に、それは星のように煌めいている。
今日という日を迎えられたことに幸せを感じていると、自室の扉が叩かれ、侍女が応対した。
姿を現したのは伯母と姉だった。
この部屋にいるのは帝国から連れて来た気心の知れた者ばかりで、会話は自然と帝国語に切り替わる。
『ご機嫌よう、ヴィクトリア』
『お邪魔するわね』
『いらっしゃい。伯母様、お姉様』
皇帝である父の姉でもあり、帝国の筆頭公爵家へ降嫁したクロード公爵夫人となった伯母様。
そして、同じく母方の公爵家へ降嫁し、婚約披露宴の際は妊娠中だった為、産後久しぶりの再会となったお姉様。
私は満面の笑みで二人を出迎えた。
『まあ……!なんて美しいの!!』
『本当ね。ヴィクトリア、世界一綺麗な花嫁だわ』
二人に褒められて、ドレスが乱れないように座ったまま、ふふっと微笑み返す。
『……ヴィクトリア、本当におめでとう。 ついにあなたの願いが叶うのね……』
お姉様は感慨深げに涙を浮かべ、化粧が崩れないようにハンカチでそっと目元を押さえた。
私の執念を、己の立場ゆえに押し殺そうとしたことを知るお姉様だからこその涙だろう。
『ありがとう、お姉様。 この日が迎えられたのは、お父様や皆の協力があったからこそだわ』
危うくお姉様から貰い泣きしそうになって、私は必死に瞼の熱さを堪えた。
『……そうね。 けれど、これはヴィクトリアが諦めずに手繰り寄せた結果でもあるわ。 そんなあなただからこそ、皆が力を貸したのよ』
伯母様が優しく私の肩に手を添えて、慈愛に満ちた微笑みを向けてくれる。
『そうよ。 お父様なんて、寂しさのあまり泣き言を仰って「行きたくない」と駄々をこねていらしたわ』
今日の式には、帝国の皇女が王太子妃になるということもあり、両親の皇帝夫妻も参列する。
皇太子であるお兄様まで国を留守にするわけにもいかない為、今回は会えないけれど、それは仕方のないことだ。
『……伯母様。 今回、お従兄様にはお会いにならないの?』
『そうね……たまには顔を見たいけれど。 あの子も、あの子で色々あるでしょうし』
伯母様は一瞬、寂しげな陰りを瞳に宿して微笑んだ。
儀式の時間が近付き、伯母様とお姉様は「また、後でね」と、退室して行った。
この国の慣例では、花嫁と花婿は祭壇の前まで顔を合わせることが出来ない。
ハインリヒは既に教会へ向かっているはずだ。
私もまた、裾を汚さないよう侍女たちに長いドレスのトレーンを持たせ、馬車へと乗り込んだ。
教会への経路は混乱を避ける為、なるべく目立たない道が選ばれている。
これから人生最大の儀式に臨むというのに、私の心はこれ以上ないほど凪いでいた。
緊張など微塵も感じない。
私にとって、この『結婚式』は、淡々と完遂するべき公務の一種でしかないのだから。
教会に到着し、新婦の控え室で最後の仕上げが行われた。
王太子妃のみに許されているティアラを戴き、繊細なレースのベールを顔が見えないように下ろすと侍女たちと移動を始める。
聖堂へと続く廊下を進み、重厚な扉の前に立つと、私の到着が伝えられた。
中から入場の合図となるパイプオルガンの荘厳な旋律が響き始め、ゆっくりと目の前の扉が開いた。
ベール越しではっきりとは見えないけれど、参列している諸外国の貴賓や国内貴族たちの視線。
それが一斉に私に注がれるのを感じる。
厳かな空気の中、私は一歩ずつ祭壇へと歩みを進めた。
後ろでトレーンベアラーを担っている二人の少女たちも、ゆっくりと私の足並みに合わせてついてきているのを感じる。
祭壇の階下に辿り着くと、ハインリヒが満面の笑みで私に手を差し出した。
それを一瞥し、彼からはあまり見えない程度に冷ややかな、けれど表向きは穏やかな笑みを湛えながらその手を取り、祭壇の前に二人で並び立った。
目の前には白地の生地と司教冠を被る老齢の教皇が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
王族の婚姻を祝福するのは教皇と決まっているのだ。
『ハインリヒ・レイヴンクレスト。 汝、ヴィクトリア・フォン・クロンヴァルトを妻とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓いますか?』
『誓います』
諸外国の貴賓も参列することもあり、儀式はすべて帝国語で行われる。
こういう部分でも、いかに帝国の影響力が大きいかが分かるだろう。
ハインリヒの低く、はっきりとした声が聖堂に響いた。
『ヴィクトリア・フォン・クロンヴァルト。 汝、ハインリヒ・レイヴンクレストを夫とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓いますか?』
『夫に従います』
私の『誓いの言葉』に、聖堂内が微かにざわめいた。
レイヴンクレストの慣例では、新郎が誓いを立てた後、新婦は『新郎に従います』と応じるのが通例なのだ。
そこへ私が『夫』という言葉を選んだことに、周囲は些細な『間違い』だと思ったのだろう。
ハインリヒも一瞬動揺したようだけれど、すぐに平静を取り戻したようだ。
けれど、これでいいのだ。
私が誓いを立てるのは、『夫』と呼ぶべき存在は⸺⸺ただ一人なのだから。
神官が恭しく、王家の紋章が刻まれた指輪を運んで来ると、教皇の手により、指輪に光魔法で祝福を与える。
微細な白い光の粒が指輪に注がれ、それを互いの薬指に交換すると、婚姻誓約書に魔力を込めて名前を刻んだ。
「では、誓いの口付けを」
教皇の言葉に、ハインリヒが私のベールをそっと持ち上げ、穏やかな表情のまま、彼の顔が近付いてくるのを見て静かに瞼を閉じると、そっと互いの唇が重なった。
教皇が婚姻の成立を参列者に向かって高らかに宣言すると、万雷の拍手が聖堂を揺らした。
その祝福の中で、私たちの隣に立った国王が静かに片手を挙げると、再び聖堂内は静まる。
『王太子の婚姻が成立し、ヴィクトリア・フォン・クロンヴァルトが王太子妃となったことを、ここに宣言する』
威厳に満ちた声で告げると、国内すべての貴族たちが立ち上がり、国王の言葉に最敬礼で恭順の意を示した。
幸せそうに装いながらも、私の心の中は『無』だった。
胸の高鳴りも、感動もない。
唇に触れた『誓いの口付け』など、ただの『接触』に過ぎない。
それでも、私は『幸せそうに』微笑むのだ。
世界で最も美しく、幸福な花嫁を完璧に演じながら⸺⸺。
誤字報告ありがとうございます┏○ペコッ




