Ep.63 陶酔〜ハインリヒside
ついに、運命の当日を迎えた。
天を仰げば、まるで神が私たちを祝福しているかのように、雲一つない青空が広がり、心の奥底から湧き上がる期待感に私は包まれていた。
「殿下、おはようございます」
「ああ、おはよう」
いつもより明るく聞こえる側仕えの声に応え、朝の支度が始まった。
湯を浴び、髭を剃り、着替えをして、蜂蜜色の髪を崩れないように後ろへ流す……。
今日はいつもと違い、王位継承者である私だけに許された正装を身に纏う。
白を基調とし、金糸で緻密な刺繍が施されたその装束は、ただの王子の物とは一線を画し、威厳に満ちている。
全身鏡の中の自分は、非の打ち所のない完璧な『王太子』そのものだった。
「殿下。教会へご移動されるお時間でございます」
軽食として用意されたスコーンをつまんでいると、専属執事が時間を告げ、その言葉に頷いた後、馬車に乗り込む。
……もうすぐだ。
もうすぐ、名実ともにヴィクトリアが私の『正妃』となるのだ。
高鳴る鼓動と共に、気分が高陽していくのを感じ、喜びが私の胸を満たしていく。
教会に足を踏み入れると、控え室には懇意にしている貴族たちが詰めかけてきた。
「殿下、本日は誠におめでとうございます」
「ああ、参列に感謝する」
普段は退屈で眠気を誘う儀礼的な挨拶も、今日は心地よく感じられる。
聖堂へ移動する時間になり、王太子の紋章が煌めく重厚なマントを羽織ると、私は『完璧な人生』の頂点へと続く聖堂までの道のりを、力強く踏み出した。
祭壇の階下でヴィクトリアを待ちながら、聖堂内を見渡すと、諸外国の貴賓や国内の貴族たちが祭壇までの道のりを挟むように、整然と並んでいる。
祭壇と同じ段には、豪奢に装飾された玉座に、国王である父上が威厳を漂わせ座していた。
「新婦、入場!!」
高らかに彼女の入場を告げる声とパイプオルガンの旋律が響き渡り、同時に重厚な扉が開かれると、私の心は高鳴り、期待に満ち溢れた。
溢れんばかりの陽光が降り注ぐ中、まるで天上の女神の如く輝くヴィクトリアが粛々と歩み寄ってくる。
白いベールに包まれ、遠目からはその顔を窺い知ることは出来ないが、彼女のはにかむような微笑みが脳裏に浮かび、思わず私の頬が緩んでしまう。
彼女がゆっくりと私の元に辿り着くと、私はその手を差し出した。
ベール越しに薄っすらと見える彼女の瞳と視線が交わり、彼女はそっと私の手を取った。
二人で祭壇の前に並び立つと、教皇がその穏やかな声で『婚姻の誓い』を問いかける。
『ハインリヒ・レイヴンクレスト。汝、ヴィクトリア・フォン・クロンヴァルトを妻とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓いますか?』
『誓います』
迷いなど微塵も感じさせず、私は力強い声で応じた。
『ヴィクトリア・フォン・クロンヴァルト。汝、ハインリヒ・レイヴンクレストを夫とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓いますか?』
次はヴィクトリアの番である。
期待に胸が高鳴る中、私の耳に飛び込んできたのは、予想外の言葉だった。
『夫に従います』
その瞬間、聖堂内が微かにざわめいた。
この国の慣例において、新婦は『新郎に従います』と誓うのが通例である。
だが、ここでの『新郎』も『夫』も、私を指し示すことに変わりはない。
ただ、彼女にしては珍しい『言い間違い』だと思った。
一瞬、心の中で動揺してしまったが、些末な言葉の違いなど、私の心を揺るがすには足りなかった。
王家の紋章が刻まれた指輪に、教皇が光魔法で祝福を注ぎ込み、その指輪を彼女の薬指へ滑らせる。
続いて、婚姻誓約書に魔力を込め、二人で名前を刻んだ。
彼女と向き合い、繊細なレースのベールをそっと持ち上げると、今日初めて露わになったヴィクトリアの顔は、普段の彼女とは異なり、化粧が濃いわけでもないのに眩い光を放っていた。
頬をほのかに赤らめ、幸せに満ちた微笑みを浮かべる彼女の唇に、私はそっと一つ、『誓いの口付け』を落とした。
教皇が荘厳な声で参列者へ向けて、婚姻が成立したことを高らかに宣言すると、聖堂内には祝福の拍手が響き渡り、父上から正式にヴィクトリアが王太子妃となったことが告げられたその瞬間、国内すべての貴族たちが一斉に立ち上がり、私たちに向かって最敬礼を捧げる光景は壮大だった。
私は、彼女が『妻』となったことに、これ以上ないほどの『幸福』と、『誇らしさ』で胸がいっぱいになり、心の奥底から湧き上がる感情が私を包み込む。
私の腕に手を添えたヴィクトリアこそが、私の人生において最も必要な『一欠片』だったのだと確信した瞬間、運命の女神が微笑んでいるかのように感じた。
共に教会を後にすると、馬車までの道のりに小花の雨が降り注ぐ、美しい光景が広がっていた。
城下の街の中を進むパレードは華やかで、王城のバルコニーからの参賀は、貴族、平民、身分の垣根を越えた民衆たちの祝福の言葉と、歓声が響き渡る。
「王太子殿下ーー!おめでとうございますーー!」
「王太子妃殿下、万歳ーーー!」
私とヴィクトリアは微笑み合い、手を振ってその声に応えた。
一通りの儀式を終え、残すは諸外国の貴賓と、すべての貴族たちが参加する夜会のみ。
「ヴィクトリア、疲れただろう?夜まで少し休憩するといい」
「ありがとうございますわ。では、お言葉に甘えて一度、自室に下がらせていただきますわ」
婚礼用のドレスは普通のドレスよりも重いだろう。
数時間後には夜会も始まるうえ、その後には『初夜』もある。
今のうちに休憩したほうがいいだろうと、ヴィクトリアの体調を優先し、私は名残惜しさを堪えて自室に戻る彼女の後ろ姿を見つめていた。
夜の帳が下りる頃、私は夜会用の正装に着替え、彼女を迎えに向かった。
扉を開けると、そこには儀式の時とはまた違う、眩いばかりに着飾った彼女が満面の笑みで出迎えてくれた。
ペールピンクの生地に白いレース、そして金糸の刺繍が施されたドレスからは、シミ一つない白くて美しいデコルテが惜しげもなく晒されている。
首元を飾るネックレスやイヤリングは、私の髪の色と同じイエローダイアモンドが煌めきを放ち、緩やかに波打つベージュブロンドの髪は纏められ、王太子妃にのみ許されたティアラが輝いていた。
「……ああ、ヴィクトリア。何て美しいんだ」
「ふふっ、ありがとうございますわ」
思わず抱き寄せようとしたが、ドレスを乱すなと言わんばかりに、側にいる侍女たちの『無言の笑顔』に阻まれ、ぐっと堪える様子に、彼女は楽しそうにくすくすと笑った。
こんな何気ない瞬間さえ、愛おしくて堪らない⸺⸺。
「殿下方、お時間でございます」
そんな気分も侍従の急かすような言葉に水を差され、私は密かに一つ溜め息を吐いた。
大広間の扉の前で、私たちの入場が高らかに告げられると、すべての貴族たちが一礼と共に出迎えた。
「今日は王太子と王太子妃の祝いの宴への参列に感謝する。近く王太子は王位を継承するが、夫婦となったばかりの二人だ。皆の者、若い二人を支えてやって欲しい」
父上が開幕宣言をすると、ヴァイオリンなどの音色が奏でられ、私はヴィクトリアの手を取り、ホールの中心でファーストダンスを踊り始めた。
ドレスの裾が波のように広がり、彼女の宝飾品が広間の光を集めて星屑のように煌めく。
軽快にステップを刻みながら、私はこの充足感に酔いしれていた。
私たちに続いて高位貴族たちもパートナーと共に踊り始め、広間は色とりどりの花が咲き乱れたような光景に包まれている。
私はヴィクトリアの腰を抱き寄せ、気分が高揚したまま、次のステップを踏み出した。
この後に待つ『初夜』も、明日から始まる『新たな日々』も。
すべてが、私の思い描いた通りに進んでいくのだと、この時の私は疑いもしなかった。




