古里ふたたび
幻獣の棲を抜けると旧シロン領は目と鼻の先である。
領を出て以来、獣人達やハルは元領民である身ばれを恐れて戻った事は無い。
一夜街道があまりに通行しやすい為、シロンの思惑に反して商都として繁栄を始めたのは少し先の辺境伯本領であった。
高い壁に幾重にも囲われ、陽当たりも悪く水場も少ない、そもそも中に入り難い旧シロン領は通商の拠点として使い辛く、ほとんどの商人は通り過ぎてしまう。
辺境伯直轄領となり、国境なので兵も常駐しているが、ただそれだけのつまらぬ地である。
かつて煌華とハルが壁に刻んだ『商都シロキオン』の文字がただただ無様な寂れようだ。
その壁を見上げて、モナが嗚咽をもらす。
「寄っていこうか。」
ウィラードが猫耳頭をわしっと抱き寄せて撫でる。
こくり、とモナが静かに頷く。
幾度かこの道を辿った事のあるウィラードだが、まるでシロンの墓標の様にそびえ立つこの壁をくぐった事は無い。
独りでは余りに懐かしく耐え難い記憶の在りかであったから。
思い出に浸りかけた彼らに、消え入りそうな声がかかる。
「あの、俺は。もしかしたら兵が覚えているかも知れないから。」
ハルが言うなり。
モナを優しく撫でていた手で、ウィラードがハルの顔を殴りつけた。
腫れ上がるまで、何度も何度も。
「これで人相なんざ分からんでしょう。…あんたが付いていながら。あんたはここであの方のお側にいたんでしょうが。」
まだ殴り足りない、出来るなら縊り殺してやりたい、そんな殺意のこもった目でハルを睨む。
ハルに返す言葉はない。
それが何としてでもシロンに侍り付いて彼を守るべきだったというウィラードの自責の念の裏返し、八つ当たりに近いものだと分かっていても。
「立てるか?」
ナーダルに抱えらてハルはよろよろと立ち上がる。
「行くぞ、ウィラード。」
カリオンに促されてウィラードも握りしめていた拳を開く。
「…先に行って下さい。少し頭を冷やしてきます。」
「本当にぬるい人達だねえ。五年も経ってしまっているのでしょう?今更、感傷に浸っても仕方ない。それより一日手遅れ、なんてそんな徒労、ぼくは嫌ですよ。」
ぐったりしたハルを背負いながらナーダルが言う。
「弱味を見せたらけつの毛まで毟られる商売の世界にいるんですよ、あんたは。」
自身も商家の出であるナーダルの言は重い。
日頃はへらへらと遊び歩いている男だが、ここぞという所ではウィラードを導いてきた。
「殴って欲しいなら後でいくらでも嬲ってあげますから。ほら、何事かと門兵まで出てきましたよ。」
「…ひとを変態扱いせんで下さい。わかりましたよ。ルルリン達を一休みさせる、そしたら出立、それでいいですか。」
どうなることかとはらはら見ていたモナが頷く。
「ちょっとだけでいいのにゃ。ウーさん、ハルは悪くないのにゃ。頑張ったのにゃ。モナもシロンさま止められなかったのにゃあ。」
五年分の憤りをハルにぶつけたウィラードの様に、モナもわんわんと泣きだした。
「お騒がせいたしましております。お気に入りにちょっかいを出した丁稚小僧を旦那様が叩きのめされまして。しばし入都の上、休憩を取りたいのですがご許可願えますでしょうか。」
普段は寡黙なベルドが、そつなく兵に適当な理由と袖の下を渡す。
つんつん、と煌華がウィラードの髪を引いた。
「私も顔ばれしてるかも。」
横で焔が臨戦態勢に入る。
よもやまさか、娘を殴らんだろうな?
もちろんです、義父上。
慌ててウィラードが目で会話を交わす。
「この前渡した紅でも塗りたくっておいて下さい。女は化粧でいくらでも化け、あー、雰囲気が変わるので大丈夫でしょう。」
憤り、後悔、慚愧の念が薄れている。
また、喰われたのか。
少しだけ、感情を喰われる事へのシロンの拒絶がわかった気がした。
もう、五年。
それともまだ、五年なのか。
壁の中の荘園は荒れた様子もなく、そこここの家から見知った顔が現れそうな程、変わりがない。
宿と飯屋を兼ねた店が一軒、補給の為の武具から食い物まで揃えた店がもう一軒。
曲がりなりにも交易路にある街なのに商いを営むのはその二軒だけで、他に旅人の姿も無い。
貸切状態の飯屋の片隅でウィラードが憮然と酒を飲んでいると、いつもは寄ってもこないルルリン隊の少女達が食事を終えて手持ち無沙汰なのかぞろぞろやって来て勝手に酒瓶を下げてしまった。
「記念すべきブライデル帝国第一回目の公演をするのにゃ。」
目元に先程の大泣きの跡がほんのりと残るモナがウィラードの背を押して外に連れ出す。
本衣装に着替えた獣人娘達が陽気な歌を歌いながら尻尾をふりふり踊り始める。
何ごとだと兵達が集まり、やがてやんややんやの喝采を送る。
可愛いと言えばもちろん可愛いのだが、年増女将の酌で呑んでいる方がいい。
だんだんヒートアップする若い兵達の真ん中に座らされて、居た堪れない思いのままウィラードも拍手を送る。
舞台袖で顔を時折さすりながら、ハルもふりふり踊っているのが見えた。
同じおっさん属性の筈なのに、実に楽しそうだ。
きっとこの歌や踊りも彼からの和解の気遣いなのだろう。
後で謝るか。
ルルリン達に踊りの輪へ引きずり込まれながらハルの必殺技、土下座以上の謝り方を思案するウィラードだった。




