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春待つ日々

「トンさん、またやっているのか。」

 看守の呆れた声に、腕立て伏せをしていた囚人が顔を上げる。

 醜く歪み潰れた鼻に看守達からは豚人、トンジと呼ばれている男だ。

「ああ、もうそんな時間?」

 額の汗を拭い、扉の前に跪く。

 小さな受け渡し口を開き、椀とパンを差し入れる。

「食べて寝てばかりじゃ、太ってしまうよ。」

 嗄れた声にそぐわない闊達さで囚人は言い、とても肥るとは思えない粗末な食事を受け取る。

 最初連れて来られた時は小男かと皆思ったが、怪我が癒え、彼が動け喋れるようになるとそれが痛ましい勘違いだった事に気づいた。

 まだ、少年であった。

 一体何故こんなところに囚われているのか。

 彼は自分の名も境遇も黙して語らない。

 未だ成長期の彼に野菜のかけらが僅かに浮くだけの食事は明らかに栄養が足りていないのだろう。

 ぼろぼろの虜衣から見える胸には肋が浮いている。

 その服もぼろである以上に丈があっていない。

 かつて見かねて、余りにも酷い待遇だと改善の要望を上げた看守がいたのだが、即、配置換えをされてしまった。

 それどころか懲罰だと、ただでさえも身不自由な囚人を戒めて、その鎖枷は今も足に繋がったままである。

「外はそろそろ暖かくなった?」

 トンジに訊かれて、看守はほっとする。

「ああ。大分暖かくなったよ。桜花も咲き始めた。」

 冷たい石牢の辛い季節も終わりだと、少しは彼の励みになりそうな話題で応えられるのがありがたい。

 看守達は皆、彼の穏やかな物言いや、美しい所作、細やかな心遣いに魅了されていた。

 目を背けたくなるような醜い傷痕があってさえ、彼の一挙一動をつい目で追ってしまう。

 今の姿からは想像のしようもないが、この青年の魂には健やかで美しい姿がさぞかし似合うことだろう。

 老人のようにかさかさの肌、汚らしい伸びた爪の生えている手が椀を返してくる。

 あまりにも憐れで、看守はつい口にしてはいけない事を聞いてしまう。

「なあ、トンさん。何か俺に出来る事はないかい?」

 トンジは多分微笑んだのだろう。

「そうだねえ。…いつか僕はここから逃げるから、あまり優しくしないで貰えるかな。」

 いつか逃げる。

 叶うはずもない望みが彼の口ぐせだ。そして続ける。

「情がうつるよ。」

 情がうつっているのはこっちの方だ、と看守は哀しく思う。

 何かしてやりたいが、迷惑がかかるからと彼は素性すら明かさない。

 この牢に限っては物の持ち込み持ち出しも特に厳しく、弁当のハム一切れ分けてやることも出来ない。

「別にいいんだよ、俺は。近しい身内がいるわけでなし、トンさんが逃げる時にはついて行こうかな。」

「頼もしいね。じゃあ貴方の当直の時に脱獄しようか。」

 そう言うと冷たい壁にもたれかかり、小さく開けられた窓とも言い難い明り取りの穴を見上げる。

「そろそろ春が来る、か…。」



「あ、旦那さんお帰りなさい。」

 いそいそと冷たい飲み物運び上着を受け取る少年を見て、ウィラードがなんとも言えない顔をする。

「益々丁稚が板についてきましたな、ハル殿は。」

「いやあ、性に合うっていうか。それで、どう?御用商人に入り込めました?」

 ウィラードがニヤリと笑って御用達の印が刻印された羊皮紙を広げる。

「おー!流石。これで越後屋も安泰ですなあ、ホッホッホ。」

「いえいえ、これもお代官様のお陰です、ヒッヒッヒ。って、毎度これなんなんです?」

「特に意味は無いです。それにしてもウーさんにこんな才能があったなんてビックリですよ。」


 シロン領を脱出してからはや五年の歳月が流れていた。

 先行していたウィラード達と合流し、路銀とツテと冒険者時代の東方の知識を総動員してイズールを拠点に細商いを始めてみたがこれが瞬く間に大店へ育った次第である。

 使えるものは何でも使った。

 幻獣の隠し財宝、エリム砦の人脈、獣人の健脚。

 お陰でウィラード商会の食客は怪人の吹き溜まりとなっている。

 それぞれが仙才鬼才の逸材ではあるのだが、人格に難を抱えた者ばかりで商会が軌道に乗った今となってはそろそろ出て行って欲しい。

 しかし何故かウィラードは気に入られて、各人に腰を据えられて今に至る。

 その筆頭。

 あろうことか女将の座に居座った煌華が大欠伸をしながら現れた。

 昼も遠にまわったおやつどきである。

 しどけない格好と言いたいところだが、貫禄も色気も足りずだらし無い格好としか言いようがない。

「あら、お帰りなさい、あ、な、た。」

 ノリノリである。

 所帯は持てたものの、これじゃない感一杯のウィラードがハルの出迎えの時以上の微妙な顔で頷く。

 ちらと、御用達印を見て煌華はふんと鼻で笑う。

「間怠っこしいわね。わたくしに一つ頭を下げれば、」

「下げれば幻獣戦争か?それに、何だそのだらし無い格好は。」

 筆頭の上を行く御仁が現れた。

「婿殿、申し訳ない。」

 見事な角度で礼を決めるのは焔である。

 慇懃な態度だが煌華に付いて居着いてしまうくらいの親馬鹿である。

 胃が痛い。

 そこへナーダルまでやってきてウィラードの健闘を称え冷やかす。

 いやもう、ほんと、帰って欲しい。

 いっそ働く気が全く無く、ごろごろしているだけのリュヘルを見習って欲しいぐらいだ。

「旦那様!お疲れ様でした。宴席の用意はこれで終いです!」

 ヌコが両手に尾頭付きの大魚を持って遣いから帰宅してきた。

「ヌコまで旦那はやめてくれ。」

「じゃあ、俺も奥方の愛人扱いやめて下さいよ。」

「俺に言うなよ…どうしろと?」

 片や若い嫁さんに好き勝手される成り上がり、片や旦那公認で嫁さんのご機嫌とりが仕事の使用人。そんな陰口を叩かれている二人である。

 悲しいかな、実状もさして変わりない。

 ともあれ、大願成就の為の第一歩を果たして今は皆を労おう。

 ウィラードはヌコの肩をぽんと叩くと従業員達のまつ宴席の場へ向かうのだった。

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