逆鱗
人間は森に入って来ない。
そう、カリオンは言った。
であれば、森の際ぎりぎりに兵を配しても問題無い。
シロンがカリオンに連れて行かれたのは、弓矢こそ届かぬ距離ではあったが、人間の砦のほんの目と鼻の先だった。
そこに、獣人の軍勢は陣を広げ、将カリオンの帰還を待っていたのだった。
合図はまだか。
そう、不機嫌を隠そうともせず寄ってきた副官らしい獣人に聞く。
まだです、との答えに、ふん、と唸る。
「合図?密偵を忍ばせているのですか?」
「向こうから、襲って来いと印が出される。」
「印?」
どうも言っていることが分からない。
カリオン達はわざわざ相手が万端の準備を済ませて合図を出して来てから襲う、と言うことなのだろうか。
「その、印とやらが出て、一体どのように動かれるのですか?」
砦に強襲をかけるには、相応の覚悟が要る。
ましてや、相手は襲ってくる事を知っているのだ。
森を出てしまえば、格好の的だ。
先程の魔獣クラスの機動力があれば砦にたどり着けるかも知れない。
だが、壁に取り付いたら機動力は失われる。
射掛けられたら逃げ場は無い。
シロンや煌華レベルの魔術師であれば遠隔攻撃も出来るが、そんな強力な魔術師はそうはいないのだ。
この手勢でどう攻める?
ウィラードが粘っているのか。
何か策を弄しているのか。
待ち草臥れる、とカリオンは言ったが、まさに緊張に満ちた時が兵を疲れさせている。
時が経つほど、シロンの魔力は回復し全快と言わぬまでもこと魔術師としての不安はない。
「戦が始まれば、我らは投石隊と飛空隊で城壁上の弓隊を狙う。」
「飛空隊、ですか。」
「隊、と言っても大鴉三羽だ。」
黒い三連星である。
聞き逃せなかったのか、ハルがことり、と動いた。
「何だ?今の音は。」
「失礼、不作法をしました。」
鍔鳴りに聞こえたので不機嫌に問うたカリオンに、腹の虫が鳴いたとばかりにそらとぼける。
じろともう一度睨んでから、近くを通る兵を呼び止めて何かシロン達へ食べ物を運ぶよう命じる。
ああ、このヒトも獣人なんだ、とシロンは思う。
本来の性はひどく優しいのだろう。
がつがつと粗末な糧を貪るシロンとヌコを見て尾がハタハタと揺らいでいる。
おっさんでも萌えてしまうやん、とハルがいいだしそうな気がしてシロンは耳を澄ませたが、剣は喋らない。
世間話でもしているかのように、淡々とカリオンが彼の戦術を明かしてゆく。
それを聞きながら、でもこれでは、とシロンは哀しく思う。
圧倒的に獣人の分が悪い。
恐らく、犠牲が沢山出るだろう。
何故そこまでして、砦を襲う?
シロンが焚きつけてみたように、そこまでして森の外へ出たいのか。
そこへ。
「印がかけられました。今回は客人の手下一名のみです。いかがしますか?」
カリオンに似た隻腕の獣人が報告に現れた。
流石にまきしまむヒールも辺臨では効果が薄いのだろう。身体欠損の回復は出来なかったようだ。
見れば古傷を持つ獣人兵は多い。
後でまとめて治療しよう、と心に留める。
それよりも、今は。
何かとても不穏な言葉を聞いた気がする。
「見たほうが早い。」
問おうとするシロンを遮り、見張り塔へ向かう。
綱でかけられた梯子を隻腕の兵がするすると器用に登ってゆく。
シロン、ヌコ、カリオンと続く。
煌華は何か見えているのか砦の方を見据えたまま、忌々しげに爪を噛んでいる。
最上段を上がると、一気に視界が開けた。
下では気づかなかったが、夕闇が迫っている。
西陽に赤く染まる城壁を見て、ヌコが目を背けた。
壁は近い。
シロンの目にも見える程の距離にヒトが一人、吊るされている。
あれは。
「ウィラードさんです。」
シロンの問いに目を背けたままヌコが頷いた。
はあ、とシロンは息を吐く。
落ち着け、とカリオンがその肩に手を置く。
成る程、これは怒り狂う。
惨虐な砦の人間にも、こうなると知りながらウィラードを送り出したカリオンにも。
獣人達が無謀な戦術で砦を襲っていく理由はわかった。
都度、こんな景色を見せられてきたのだろう。
「聞こえているか?落ち着け。」
聞こえている、と応じる自分の声が他人のもののようだ。
激情に駆られて動いても良い結果は生まれない。
だが、この蛮行を見逃しては勇者の魂が地に堕つ。
シロンはハルテシオを握りしめ、何処から攻めようかと砦を睥睨する。
『バシッ』
「シロン様!」
頬を張られてヌコに支えられる。
「にゃにを、」
「そんなに耐え難いなら、今すぐ俺が射殺してやる。弓と魔獣を用意しろ。」
「…せめて宵闇を待っての出陣を。」
「待って下さい。彼は、ウィラードは、生きているんですね?」
シロンがカリオンの胸ぐらを掴む。
「無事、ではなかろうが生きている。我らはもう屍では動かぬからな。」
低く抑えられた声で言われて。
それなりの覚悟をした筈だが、全く甘いものだったとシロンは恥じた。
士郎とシロンに、神は随分優しい世界を与えてくれた。
だからと言って、他人に責を押し付けて温く生きる選択は、シロンに無い。
為すべき事は、獣人と人間の争いに加担する事ではなく、何人にも等しく優しい世界をもたらす事。
シロンはカリオンをひたと見上げると。
「私が出ます。今からあの場に来た者は、人間でも。獣人でも。―――私が相手です。」




