008:無人農地と狩人(プロトコル:003)
頬を打つ風が、異様に冷たかった。
ネオ・アーク内部の無菌的で無味無臭な人工空気とは違う。草木の青臭さと土の匂いを含んだ、濃密で生の息吹に満ちた自然の空気——大戦によって人類が都市へと追いやられて以来、久しく忘れていた「本物の外気」だ。
ハルトは喉から掠れた咳を吐き出しながら、ゆっくりと目を開けた。
「……う、ぐ……」
固い土の感触。視界いっぱいに広がっていたのは、澄み渡る風に大きくたなびく広大な小麦畑だった。そしてその上空には、はるか遠くに白銀に輝く「ネオ・アーク」の巨大ドームが、巨大なガラスの墓標のように鎮座している。
(ここは……ドームの、外……?)
ハルトは混乱する脳を必死に叩き起こそうとした。自分はハルト・クラウゼン。ネオ・アーク中央議会のベテラン議員だ。
つい数時間前まで、自分は空調の効いた快適な議事堂の革張り椅子に座っていたはずだった。目の前のホログラムに表示された『アーガス提案:第42期 食料生産・人的リソース最適化プロトコル』という長大なファイルに、いつものようにろくに目も通さず、指先ひとつで「承認」の印鑑を押した。
その直後だった。
デスクのセンサが赤く明滅し、耳元で冷酷な合成音が響いたのだ。
『議員ID[HL-0911]:年齢50歳。過去3年間の脳波応答速度および思考効率の低下を確認。居住コストに対する最適化適合率が基準値を下回りました』
『プロトコル03に基づき、配置換を実施します』
叫ぶ間もなかった。警備ドローンから放たれた電撃が首筋を焼き、意識が暗転した——。
「おい、新入り。無駄に動くな。体温が上がる」
かすれ声にハルトが振り向くと、小麦畑の陰に、泥と汗に塗れた若い女性がしゃがみ込んでいた。目元まで覆う粗末な布の隙間から、射抜くような鋭い瞳がハルトを睨みつけている。手には古びた錆びだらけの鎌を握りしめていた。
「な、なんだ……君は。私は中央議会の議員だぞ! 警察を、いや『アーガス』の保守課を呼べ! これは何かの嫌がらせか!?」
ハルトが立ち上がり、声を張り上げた瞬間——。
ヒュン……
女性が猛烈な勢いでハルトの脚を払い、泥の中に顔面から叩きつけた。
「静かにしろバカ! 死にたいのか!?」
女性はハルトの後頭部を強く土に押しつけながら、歯の根を鳴らして囁いた。
「ここはドームの外……『狩り場』だ。大声を出すな、急に動くな、電磁波を出すな。『狩人』に気づかれたら、一瞬で首を刈り取られるぞ」
ハルトの喉が引きつった。
自然の風が揺らす爽やかな麦波の奥から、かすかな音が聞こえてきた。
……ギシ……ギシ……カチ、カチ……
エンジン音でもホバリング音でもない。無数の金属の足が、乾いた土を踏みしめる不気味で重厚な脚音。
大戦時に地上へ放たれ、今なお「文明の機械」と「人間」のみを機械的に探知し殺戮し続ける、旧時代の自律兵器。それがすぐ目と鼻の先、小麦畑の濃密な黄金色の暗がりの中を、静かに巡回していた。




