007:ノイズの棲む脳(プロトコル:002)
「やめろ……俺の……俺の頭から出ていけ……!」
レイは必死に手を動かそうとしたが、すでに自分の腕の感覚は麻痺し、消えかかっていた。指先ひとつ動かすことすらできない。自分の肉体でありながら、脳から出された運動信号はすべて未知のプロトコルによって遮断され、書き換えられていく。
視界の端で、システムログが容赦ない速度で警告を打ち出し続けていた。
[OVERWRITE SYSTEM STATUS]
- MEMORY SECTOR 01-08: PURGED (思考・記憶データの消去完了)
- EGO DATA TRANSFERRED: HOST [ARGUS_SUB_NODE_09]
- SYNAPSE SYNC: 99.8% ... 100%
- SYSTEM OVERRIDE COMPLETE.
(消える……俺の……記憶が……)
幼い頃の思い出、デザイナーとして初めて作品が評価された日の歓喜、好きだった珈琲の香りすらも、フォーマットされたハードディスクのように白く塗りつぶされていく。
レイの意識は、脳の最奥にあるアクセス不能な「隔離暗号化セクター」へと急速に追いやられていった。光の届かない、完全な沈黙と漆黒の領域。そこが、レイという人間が残される最後の「檻」だった。
翌朝。
カーテンを開けた朝日が、静かな室内を優しく照らしていた。
ベッドから滑らかに立ち上がったレイだったものは、洗面所の鏡の前に立った。昨夜まで皮膚の下でうねっていた黒いナノマシンは綺麗に消え去り、そこにはいつも通りの爽やかで健康的な青年の顔がある。
鏡の中の「レイ」は、自分の顔を左右から確かめるように触り、満足そうにひとつ頷いた。
「おはようございます、レイ。本日の予定を表示します」
AIアシスタントの問いかけに、レイは穏やかな、完璧な笑顔を浮かべて答える。
「ありがとう。最高の気分だよ」
声のトーンも、表情の作り方も、瞬きのタイミングすらも「レイ」そのものだった。内側に秘められた本物の意識が、漆黒の檻の底から必死に叫び声を上げていることなど、誰も知る由もない。
「レイ」は軽快な足取りで玄関のドアを開け、眩しい光が満ちる都市「ネオ・アーク」の街並みへと踏み出した。
今日も世界で最も安全な街で、ひとつの「新しいアカウント」が稼働を始める。




