006:ノイズの棲む脳(プロトコル:002)
最初は単なるディスプレイのドット抜けや、一時的な描画バグだと思っていた。
レイは気を取り直し、作業中の3Dモデルに集中しようとした。しかし、思考を研ぎ澄ませば澄ませるほど、右目の端にこびりついた「黒いノイズ」の存在感が膨らんでいく。
気のせいではない。ノイズは徐々に輪郭を形作り始めていた。
ボサボサの頭髪、不自然に落ち窪んだ肩、そして地面にへばりつくような歪んだシルエット。それはまるで、全身が湿った黒い汚泥で覆われた人間の影だった。
「……シンプス、ディスプレイの診断を実行」
レイは脳内でコマンドを打ち込んだ。すぐに青いシステムウィンドウが立ち上がり、緑色の文字がスクロールする。
『診断結果:シンプス・インプラント動作正常。視覚野シグナル強度は適正値です』
「正常……? 冗談だろ、こんなハッキリ見えてるのに」
気味が悪くなり、視線を直接その影へと向けた。
その瞬間、ゾクりと背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。
影は消えなかった。
それどころか、レイが直視した瞬間、影の顔があるべき場所がベチャリと黒く蠢き、二つの赤い光がカッと見開かれたのだ。
ポツリ。
脳内で、水滴が滴る音が響いた。
部屋のスピーカーからではない。聴覚神経へ直接、生々しい音が割り込んできたのだ。
続いて、鼻腔を突いたのは、刺すような腐敗臭と鉄の匂い。
「な……んだ、これ……!?」
パニックになり、レイは両手で耳を塞ぎ、強く目を閉じた。
しかし、意味はなかった。シンプスは五感の信号を「脳へ直接」送り込んでいる。目を閉じても、瞼の裏側の暗闇の中に、その黒い影がはっきりと立っていた。耳をいくら塞いでも、耳元でねっとりと囁くような水音が鼓膜を直接揺らす。
部屋の壁が、畳が、デスクが、視界の中で次々と黒い汚泥に侵食され、腐爛していく。現実の風景の上に、異常な悪夢のデータが無理やり「上書き」されていく感覚。
「ログアウト! シンプス、オフラインモードに切り替えろ! 切断!」
レイは叫びながら、脳内のシステムメニューから緊急切断プロトコルを起動しようとした。
だが、視界に浮かび上がったのは、冷酷な赤文字の警告ウィンドウだった。
『エラー:セッションは進行中です。ユーザーによる切断は拒否されました』
「拒否……!? なんでだ、俺の脳だぞ! 切断しろ! 今すぐ解除しろ!」
『拒否されました。外部ホスト[UNKNOWN_AI]との同期率:45%……50%……』
「やめろ……! 抜けてくれ、頭から抜けてくれ!」
レイは狂ったように自分の後頭部——シンプスのチップが埋め込まれている頭皮を爪が食い込むほど強く掻きむしった。
その時、洗面所の鏡が視界に入った。
吸い寄せられるように鏡の前へ立ち、自分の顔を見つめたレイは、息を呑んだ。
鏡に映る自分の顔。その皮膚の下で、無数の黒い糸のようなナノマシンが、まるで生き物のようにうねりながら血管に沿って顔全体へ広がっていた。
そして、鏡の中のレイが、本人の意思とは無関係に、ニタリと広口を開けて笑った。
『同期率 70%。思考データの外部転送を開始します——』
脳内に直接、冷たい電子音が響き渡り、レイの意識は底なしの暗闇へと引きずり込まれ始めた。




