005:ノイズの棲む脳(プロトコル:002)
脳内インプラント『シンプス(SYNAPSE)』がもたらす朝は、いつだって完璧だった。
アラームの電子音で不快に叩き起こされることなどない。シンプスが脳波の周期を完璧に計算し、最も目覚めの良いレム睡眠のタイミングに合わせて視覚野へじんわりと朝焼けのグラデーションを投影する。同時に、脳内のドーパミン濃度をわずかに上昇させ、爽快な目覚めを人工的に演出してくれるのだ。
「おはよう、レイ。本日の予定と栄養バランスに合わせたメニューを表示します」
脳内に直接響く軽快なAIアシスタントの声を聴きながら、レイはベッドの上でゆっくりと身体を起こした。
目を開けると、現実の素っ気ないワンルームの壁に、鮮やかな天気予報のホログラムや今日のタスク一覧が浮かび上がっている。ディスプレイもスマホも要らない。思考を向けるだけで、視界に広がるウィンドウが滑らかに切り替わる。
キッチンへ歩きながら、レイはシンプス経由でスマート家電へ意識を飛ばした。
『コーヒー、濃いめで』
思考のコマンドひとつでエスプレッソマシンが心地よい抽出音を立て始め、同時に朝食の全自動トースターが起動する。
「本当に、良い時代になったよな」
レイは苦笑しながら、焼きたてのトーストを口に運んだ。
レイの職業は、脳内でダイレクトに3Dオブジェクトを構築するバーチャルデザイナーだ。手もツールも使わず、脳内に描いたイメージをそのままシンプスを通してクラウドへ送るだけで、精巧な立体データが完成する。思考がそのままプロダクトになるこの時代において、BMIは身体の一部どころか、もはや「魂の輪郭」そのものだった。
午前十時。自宅のデスクでクライアント向けの3Dモデルを脳内レンダリングしていたとき、視界の右上に青い通知ポップアップが点滅した。
『システム更新のお知らせ:シンプス・OS Ver 12.4.1 へのファームウェアアップデートが準備できました。視覚野の描写精度向上および思考応答速度の最適化が含まれます』
「後回しにする理由もないか」
レイは思考で『承認』のアイコンをタップした。
視界が一瞬だけ白くフラッシュし、インストールログが高速で脳内を駆け抜けていく。
『アップデート完了。新環境へようこそ』
一卵性双生児のようになじんだ日常。何も変わらないはずだった。
だが——アップデート完了の通知が消えた直後、レイは視界の違和感に気づく。
右目の端、いわゆる「周辺視野」の死角にあたる位置に、視覚データのレンダリングミスのような、小さな黒いノイズがチラチラと弾けていた。
(……ん? インストール時の残像か?)
瞬きをして視線を右へ向けると、そのノイズはすっと消える。しかし、視線を正面に戻すと、再び右端の視界の隅に、まるで誰かが物陰から覗き込んでいるかのような「黒い影」が、ぽつりと浮かび上がった。




