作者が消えても、物語は残る。――それならば、人を消すのに必要な嘘はどんな嘘?
二一一七年。
目の前で地に半ばまでめり込んでいるそいつは、俺が月から消えた、その前年に作られたものだった。
製造者名も読める。規格番号もある。注意事項まで、千年以上前の山中にある物体とは思えないほど当たり前の日本語で記されていた。
だからこそ、俺は困った。
これが二十二世紀の人工物であることについては、もう疑う余地がほとんどない。問題は、それ以外のことが何一つ分からないことだった。
俺と一緒に来たのか。
別の時点から来たのか。
月面基地にあったものなのか。
軌道上を漂っていたものなのか。
そもそも本当に宇宙ごみなのか。
規格番号を完全に覚えていれば用途まで推測できたかもしれないが、残念ながら俺は歩く工業規格データベースではない。二十二世紀の人間だからといって、二十二世紀に製造されたあらゆる部品を見分けられるわけではなかった。
もっと調べたかった。
ところが。
「駄目だ」
年長の男に止められた。
「いや、これは俺に関係があるかもしれない」
当然、通じない。
俺は物体を指し、自分を指し、空を指した。
男の顔が険しくなる。
「頼む。壊さない。見るだけだ」
駄目だった。
掘り起こされた白い物体には布が掛けられ、男たちによって運ばれていった。
「待て」
追おうとして止められる。
「かぐや。ちょっとこいつに――」
振り返った。
いない。
「かぐや?」
返事もない。
そこで俺は、芳野へ着いてから彼女の姿を見ていないことに気づいた。
目の前から、二十二世紀の人工物が運び去られていく。
同時に、かぐやも消えた。
どちらを追うべきか。
三秒ほど考えた。
「かぐや!」
俺は後者を選んだ。
*
芳野は、俺が三月ほど暮らした集落よりずっと大きかった。
もちろん、二十二世紀の都市と比較するような規模ではない。高層建築も舗装道路もなければ、公共交通機関も通信網もない。
それでも、人が多い。
馬がいる。
荷を運ぶ者がいる。
田畑だけではなく、木材や布や器らしきものが集まり、それが別の場所へ運ばれていく。
人が集まれば、物も集まる。
物が集まれば、それを管理する必要が生まれる。
そして、管理する必要が生まれれば。
文字が現れる。
俺は足を止めた。
木片に何かが書かれていた。
読めない。
だが、文字だ。
別の場所にもある。
荷に付けられたもの。
人や物の数を書いているらしいもの。
俺には意味が分からない。
それでも妙に嬉しかった。
二十二世紀では、文字など空気と同じだった。端末を開けば文字がある。建物にも商品にも道路にも文字がある。視界へ直接情報を重ねることさえ珍しくなかった。
ところが、この時代へ来てから、それが消えた。
俺は言葉だけでなく、文字まで失っていた。
だから意味の分からない文字を見て、少し安心した。
人間が記録している。
ならば、調べられる。
俺が今いる時代についても、芳野についても、ひょっとすればかぐやについても。
問題は。
「一文字も読めないんだよな」
「何がじゃ」
後ろから声がした。
振り返る。
「どこ行ってた」
「着替えさせられておった」
「着替え?」
そこで初めて、俺はかぐやの格好を見た。
黙った。
「何じゃ」
「いや」
「何じゃ、その顔は」
「似合ってる」
かぐやが露骨に嫌そうな顔をした。
「何がおかしい」
「褒めたんだよ」
「おぬしが素直に褒めると気味が悪い」
「俺の扱い、ひどくない?」
だが、本当に似合っていた。
衣服について正確な名称を言えるほど俺はこの時代に詳しくない。ただ、集落で着ていたものより仕立てがよく、布にも余裕がある。金色の髪も整えられていた。
それだけなのに、印象が違った。
竹林を歩き、畑仕事を手伝い、俺とくだらない口喧嘩をしていた少女が、急にこの時代のどこかへ収まったように見える。
俺はそれが少し嫌だった。
「誰に着せられた」
「婆たちじゃ」
「あの金髪の婆さん?」
「あれだけではない」
「何のために」
「知らぬ」
「またそれか」
「わらわに言うな」
かぐやは歩き出した。
「おぬしも来いと言われておる」
「どこへ」
「偉い者のところじゃ」
「どれくらい偉い」
「知らぬ」
「そこ重要だろ」
「おぬしよりは偉い」
「比較対象が底辺すぎる」
かぐやは笑った。
*
建物へ入って、最初に困ったのは言葉ではなかった。
どこへ座ればいいのか分からない。
奥に男がいる。
五十を越えているように見えた。
その左右にも何人かいる。
例の若い男と年長の男もいた。
金色の髪をした老婆もいる。
座る場所だけで、何となく序列があることは分かった。
問題は、その序列のどこにも俺の居場所がないことだった。
立つのか。
座るのか。
頭を下げるのか。
誰に。
どれくらい。
二十二世紀の日本人である俺にだって礼儀はあった。しかし千年以上前の礼法を実技で習った覚えはない。
仕方なく周囲を観察した。
後から入ってきた男が膝をついた。
俺も真似した。
少し遅かったらしい。
若い男が笑った。
「笑うな」
さらに笑われた。
やはり気に入らない。
奥の男が口を開く。
全員が黙った。
俺も黙る。
そして。
ほとんど分からなかった。
困った。
これは本当に困る。
三月ほど暮らした集落では、日常生活に必要な会話ならかなりできるようになっていた。飯、天気、仕事、道具、身体、家族。かぐやとなら、冗談も言える。
だが、ここで使われている言葉は違った。
速いだけではない。
知らない単語が多い。
人の名なのか。
土地の名なのか。
役目なのか。
身分なのか。
俺には区別すらつかない。
英語で日常会話ができる人間を、いきなり英語圏の裁判所へ放り込んだようなものかもしれない。
俺は必死に単語を拾った。
西。
母。
子。
女。
芳野。
都。
そして。
かぐや。
その名だけは何度も聞こえた。
奥の男がかぐやへ何か尋ねる。
かぐやが答える。
金色の髪の老婆が口を挟む。
年長の男も話す。
しばらくして、かぐやが俺を見た。
「何だ」
「おぬしのことを聞いておる」
「何て?」
「何者なのか、と」
「またそれか」
俺自身が一番困っている質問だった。
俺は何者なのか。
二十二世紀なら答えられた。
名前。
所属。
職業。
資格。
国籍。
必要なら個人識別情報。
この時代では、そのどれにも意味がない。
「遠くから来た」
答える。
かぐやが訳す。
「しばらく、あの里で世話になっていた」
さらに訳す。
少し考えた。
「かぐやに拾われた」
「おぬしまで言うな!」
若い男が吹き出した。
「一番説明が早いだろ」
「わらわが拾ったのではない。勝手に竹林から付いてきたのじゃ」
「大差ない」
「ある」
奥の男は笑わなかった。
俺を見て、何か尋ねる。
「何て?」
「どこから来たのか」
答えようとして、俺は老婆を見た。
月から来た。
これまでは、そう答えていた。
信じられなくても事実だからだ。
だが芳野には、二一一七年製造の人工物がある。
俺が月から来たと話したとき、老婆は明らかに反応した。
この人間たちが何を知っているのか分からない以上、こちらから情報を与えすぎる理由もない。
「東」
俺は答えた。
かぐやが俺を見る。
その顔をやめろ。
「どれほど東か、と」
「ずっと」
かぐやの口元が動いた。
「笑うな」
「笑っておらぬ」
「こっち見ろ」
「嫌じゃ」
奥の男は、俺とかぐやを交互に見た。
何か言う。
今度はかぐやがすぐに訳さなかった。
「何だ」
「おぬしが」
「俺が?」
「わらわをどうするつもりなのか、と」
「どうする?」
意味が分からなかった。
「どうもしない」
かぐやが訳す。
奥の男が何か言った。
「本人が行きたいところへ行けばいいだろ」
訳された瞬間、場の空気が変わった。
俺にも分かった。
「何だ」
誰も答えない。
「俺、変なこと言った?」
かぐやが少し考える。
「わらわが、自分で行くところを決めるのか」
「そうだけど」
「なぜ」
「なぜって」
そこで俺は詰まった。
そこから説明しなければならないとは思っていなかった。
「お前の人生だからだろ」
かぐやが訳した。
また沈黙した。
俺はようやく理解した。
これは科学知識の差ではない。
社会の違いだ。
二十二世紀の俺にとって、どこで暮らすか、何をするか、誰と一緒にいるかという問題に、本人の意思が関係するのは当たり前だった。
もちろん未来だって楽園ではない。
金も家族も社会も法律も、人間の選択をいくらでも狭める。それでも、十四、五歳の少女をどこへ住まわせるかという話をしているのに、本人の意思を最初から勘定に入れないという発想は、俺にはなかった。
俺は未来から来た。
月へ行ける。
火星へも行ける。
重力について知っている。
病気についても、この時代の人間より知識がある。
そんなものばかりが未来人と古代人の違いだと思っていた。
違った。
人間についての常識まで違う。
そして生活するうえでは、そちらの違いのほうが厄介だった。
奥の男が何か言った。
かぐやが訳す。
「わらわには、行くべきところがある、と」
「誰が決めた」
「この者らが」
「じゃなくて」
俺は奥の男を見る。
「誰が決めたんだ」
かぐやが尋ねた。
答えが返ってくる。
「何て?」
かぐやの顔が少し曇った。
「都じゃ」
*
それから俺は、分からない言葉を何度も止めてもらいながら話を聞いた。
西から来た人々がいる。
かぐやの母親も、その中の一人だった。
いつ来たのか。
何人だったのか。
どこを通ってきたのか。
そこまで詳しいことは分からない。
ただ、昨日まで俺が漠然と考えていたような「一人の異国人が日本へ流れ着いた」という話ではないらしい。
人が動いた。
家族が動いた。
何代かにわたって動いた。
その途中で別れ、死に、別の土地の人間と一緒になりながら、少しずつ東へ来た。
俺は、かぐやから聞いた話を思い出した。
故郷へ帰ろうとした女。
海を越え。
山を越え。
砂漠を越え。
いくつもの国を通り。
ようやく辿り着いたときには、故郷そのものがなくなっていた。
だから東へ進んだ。
西には帰れないから。
あれは、ただの物語だったのか。
それとも。
俺は老婆を見る。
聞きたい。
だが今はやめた。
物語と歴史の境界を、俺が勝手に決めるべきではない。
西から来た人々は、物語だけを持ってきたわけではなかった。
技術もあったらしい。
薬。
布。
金属。
星。
俺が拾えた言葉はそれくらいだった。
それを聞いた瞬間、俺の頭は勝手に動き始めた。
中央アジア。
西域。
交易路。
渡来人。
先端技術の担い手。
いくらでも言葉が浮かぶ。
だが、止めた。
俺は都と芳野を間違えたばかりだ。
あかつちの星を火星だとも考えている。
未来人の知識は便利だ。
便利すぎる。
知っている歴史へ、目の前の現実を無理やり押し込むこともできてしまう。
だから今は、分からないものを分からないままにしておく。
「それで」
俺はかぐやに尋ねた。
「都はお前をどうしたいんだ」
「都へ参れ、と」
「何のために」
「それが分からぬ」
「誰も知らない?」
かぐやが尋ねる。
返事を聞いた。
「この者らも、詳しくは知らぬらしい」
「詳しく知らないのに連れていくのか」
「それは芳野へ、じゃ。都ではない」
「ああ」
そこを混同してはいけない。
芳野の人間は、かぐやを都へ直接連行しに来たのではない。
彼女を探していた。
芳野へ連れてきた。
しかも途中、都へ知らせる人間を避けた。
つまり。
「芳野と都は、同じ考えじゃないのか」
俺が言うと、かぐやも黙った。
年長の男が何か話した。
長い。
俺には半分も分からない。
土地。
人。
道。
納める。
命令。
許し。
都。
拾えたのは断片だけだった。
だが、それで十分だった。
これは一人の少女と母親の話だけではない。
かぐやをどこへ置くか。
誰が彼女を保護するのか。
誰が彼女について決めるのか。
その問題に、芳野と都の関係が絡んでいる。
「ああ」
思わず声が出た。
「何じゃ」
「歴史だ」
「何が?」
「いや」
俺は少し笑った。
時間移動。
月面基地。
火星。
スペースデブリ。
この数時間だけでも、そんなものばかり頭の中で繰り返しなぞり続けていた。
そんな俺の思考など、まるで知らない顔で、俺の時代の千年以上も前から、土地を巡って争い。
誰かに従い。
誰かに逆らい。
遠い国から人が移り。
物を運び。
言葉を運び。
物語まで運んできた。
俺が知らなかっただけで、この時代は俺が来る前から勝手に動いていた。
当たり前のことだった。
ようやく、それを実感した。
*
話が終わったころには、日が傾いていた。
外へ出る。
俺は座れる場所を見つけてどかりと腰を下ろした。
天を仰ぎ見ながら、思う。頭が疲れている。
二一一七年製造の人工物について考えたい。
本当なら今すぐ、あれをもう一度見たい。
だが、今は――、
「ここにおったか」
かぐやが来た。
「終わった?」
「何が」
「偉い人との話」
「知らぬ。出てきた」
「自由だな、お前」
「わらわの人生なのであろう?」
俺はかぐやを見た。
「覚えるの早いな」
「おぬしが言うた」
「そうだけど」
「なら、わらわが出たいと思ったから出た」
「便利に使い始めたな」
かぐやは俺の隣に座った。
しばらく二人とも黙っていた。
「母親は?」
聞いた。
かぐやの右手が動く。
親指が、人差し指の爪に触れた。
「明日、会う」
「ここにいるのか」
「少し離れたところにおるそうじゃ」
「本当に生きてたんだな」
「まだ分からぬ」
「会えば分かる?」
「うむ」
声は平静だった。
指だけが動いている。
「怖い?」
かぐやが俺を見る。
「何が」
「母親に会うの」
「怖くない」
「嘘だな」
「なぜ分かる」
「その指」
かぐやが右手を見る。
すぐに離した。
「何じゃ」
「考え事してると、それやるだろ」
「やらぬ」
「今やってた」
「やっておらぬ」
「見た」
「見間違いじゃ」
「頑固だな」
「おぬしに言われとうない」
かぐやは両手を膝の上へ置いた。
俺はその横顔を見る。
恋人も同じだった。
考えるとき。
困ったとき。
何かを言うか迷っているとき。
右手の親指で、人差し指の爪に触れる。
顔が似ている。
それだけなら、まだいい。
だが、こんな癖まで同じなのはなぜなのか。
分からない。
だから今は考えない。
「おぬしは」
「ん?」
「母がおったら、会いたいか」
「俺の?」
「うむ」
「そりゃまあ」
「生きておったら?」
「会うと思う」
「死んでおったら?」
「会えないだろ」
「そうではない」
かぐやは少し考えた。
「死んだと思っておった母が、生きていたら」
俺は答えようとして、やめた。
簡単な話ではない。
死んだと思っていた。
置いていかれた。
翁に預けられた。
何年も会いに来なかった。
それが突然、生きていると言われる。
「分からない」
俺は答えた。
「おぬしにも分からぬことがあるのじゃな」
「山ほどある」
「月のことは知っておるのに」
「月のほうが簡単なんだよ」
「母より?」
「たぶん」
月は軌道を計算できる。
質量も測れる。
距離も測れる。
人間はそうはいかない。
「でも」
俺は言った。
「会わないと分からないこともあるだろ」
かぐやは答えなかった。
*
翌朝。
金色の髪をした例の老婆が迎えに来た。
俺も当然ついていこうとした。
止められた。
「何で」
老婆が何か言う。
分からない。
「かぐや」
「母は、わらわ一人に会いたいそうじゃ」
「俺は?」
「来るな」
「俺、嫌われてない?」
「会ったこともない男を好きになる理由もなかろう」
「それはそうだけど」
「待っておれ」
「どれくらい」
「知らぬ」
「便利だなあ、その言葉」
かぐやは老婆について歩いていった。
俺は残された。
さて。
どうする。
母娘の再会を覗き見る趣味はない。
なら、俺には俺の仕事がある。
二一一七年製造の白い物体。
昨日は途中までしか見られなかった。
製造者名。
規格番号。
注意事項。
形状。
破損箇所。
可能な限り情報を集めたい。
俺は昨日、物体が運ばれて行った方角へと歩き出した。
十分後。
「……どこだ、ここ」
迷った。
建物が似ている。
案内表示がない。
地図がない。
位置情報もない。
端末もない。
二十二世紀なら、知らない土地で迷うほうが難しかった。
千年以上前では、十分で迷子になれる。
文明とはかくも、偉大なり。独り言ちる。
俺は通りかかった男に尋ねた。
「白いもの。昨日。山から来た」
男が首を傾げる。
「大きい。これくらい」
両腕を広げる。
「白い。石みたいな」
身振りを加える。
男はますます困った顔をした。
「駄目か」
諦めかけたところで、後ろから笑い声がした。
振り返る。
例の若い男だった。
「お前か」
男が何か言う。
「ゆっくり」
言い直した。
迷ったのか。
「迷ってない」
若い男が周囲を見る。
「……少し迷った」
笑われた。
「うるさい」
男が手招きする。
「案内してくれるのか?」
頷いた。
意外だった。
「いい奴だったんだな」
当然、通じなかった。
ついていく。
昨日の物体がある場所へ行くのだと思っていた。
だが、少し歩いたところで違和感を覚えた。
人家が減っていく。
「おい」
若い男は振り返らない。
「白いやつはこっちなのか?」
返事がない。
山側へ向かっている。
「待て」
俺が立ち止まると、若い男も止まった。
「どこへ行く」
男が答える。
聞き取れない。
「ゆっくり」
言い直した。
今度はいくつか分かった。
かぐや。
母。
会う。
「かぐやの母親?」
頷く。
「そこへ行くのか」
また頷いた。
「俺、来るなって言われたんだけど」
通じていない。
若い男は歩き出した。
「おい」
迷った。
戻るべきだ。
かぐやは一人で会うと言った。
俺もそれを尊重するつもりだった。
だが、若い男は明らかに俺をどこかへ連れていこうとしている。
「何なんだよ」
追った。
*
着いた場所には、小さな建物があった。
家と言っていいのか、俺には分からない。
周囲に人家は少ない。
若い男が中へ入るよう示す。
「本当に?」
頷く。
「あとでかぐやに怒られるの、俺だからな」
男は知らん顔をしている。
仕方なく入った。
薄暗い。
目が慣れる。
人がいた。
かぐやではない。
年老いた男が二人。
女が一人。
その前に、いくつか物が置かれていた。
布。
器。
金属らしきもの。
そして、木の板。
文字が書いてある。
若い男が何か言った。
「何だ」
もう一度。
西。
人。
来る。
昔。
俺は板を見る。
「西から来た人間が書いたのか?」
若い男は、完全には理解していないようだった。
だが頷いた。
俺は近づいた。
文字。
読めない。
昨日見た、この土地の文字とも少し違うように見える。
俺にはその違いすら正確には説明できない。
「これは何語だ」
当然、答えは得られない。
女が何か話した。
若い男が俺に説明しようとする。
西。
母。
母。
さらに母。
指を折る。
世代。
そういう意味だろうか。
「代々?」
反応があった。
たぶん近い。
俺は板を見る。
かぐやが母から聞いた物語。
その母も、さらに母から聞いた。
西から西へ。
人から人へ。
俺はこれまで、それを完全な口伝だと思っていた。
「書いてたのか」
板に触れようとして、やめる。
書かれている。
何が?
俺は若い男を見る。
「読める人間は?」
伝わらない。
「これ。読む」
文字を指し、口を指す。
女が何か答えた。
若い男の顔が少し曇る。
「何だ」
何度かやり取りした。
ようやく分かった。
読めない。
「誰も?」
女が首を振る。
俺は板を見た。
文字は残っている。
意味は失われている。
人は東へ移った。
その途中で言葉が変わった。
子供は母親の話す言葉を覚え、さらに別の土地の言葉も覚えた。
その子供の子供は、母親の言葉を少しだけしか知らずに育った。
さらにその子供は、もっと知らないまま大人になった。
文字は残った。
だが、読める人間の方がいなくなった。
それでも物語は残った。
文字ではなく。
声で。
俺は鳥肌が立った。
ルキアノス。
二世紀。
ギリシア語。
月へ行った、西からの物語をかぐやの口から聞かされたあの夜から、俺はずっと、どうやってその物語がここまで来たのか考えていた。
誰かが本を持ってきた。
誰かが翻訳した。
そんな一本の経路を、無意識に想像していた。
違うのかもしれない。
一人の人間が運んだのではない。
一冊の本がユーラシア大陸を横断したのでもない。
人間が移動するたびに、物語も少し動いた。
母が子へ話す。
子が別の土地で、その子へ話す。
知らない言葉は別の言葉へ置き換わる。
知らない神は別の神になる。
知らない国は「遠い西」になる。
名前は消える。
作者も消える。
それでも、面白い部分だけが残る。
月へ行く。
太陽と戦う。
奇妙な生き物がいる。
男が子を産む。
何百年もかけて。
少しずつ。
西から東へ。
「すごいな」
声が出た。
若い男が首を傾げる。
「いや」
俺は板を見た。
「すごいよ」
作者の名前など、とっくに失われている。
原文も失われている。
正確な筋書きだって、きっと変わっている。
それでも物語は生きている。
作者が消えても。
文字が読めなくなっても。
国が滅びても。
人間が面白いと思って次の人間へ話し続ける限り。
物語だけは残る。
そのとき。
俺はまだ知らなかった。
いつか自分が、その逆をやることになる。
人間を消して。
事実を消して。
名前も願いさえも消し去って。
その代わりに。
物語だけを残すことになる、そうなるだなんてことは。
*
外へ出ると、すいぶん日が高くなっていた。
若い男に礼を言った。
通じたかどうかは分からない。
「お前、いい奴だったんだな」
男が笑う。
「でも、かぐやを見るのはやめろ」
当然、そこだけは通じなかった。
芳野へ戻る。
今度は迷わなかった。
たぶん。
二度ほど道を聞いたので、迷わなかったことにする。
かぐやはまだ戻っていなかった。
俺は待った。
昼を過ぎた。
日が傾き始めた。
さすがに遅い。
何かあったのか。
そう思い始めたころ。
金色の髪の老婆が戻ってきた。
一人だった。
「かぐやは?」
老婆は俺を見た。
「かぐや」
もう一度言う。
老婆が何か答える。
分からない。
「どこにいる」
西を指す。
違う。
山のほう。
「母親と一緒?」
母という単語を使う。
老婆が頷いた。
少し安心する。
だが、老婆の顔がおかしい。
「何かあった?」
通じない。
俺は身振りを交えて聞く。
老婆がしばらく迷った。
そして、俺の腕を掴んだ。
「何だ」
引っ張られる。
「行くのか?」
頷く。
俺はついていった。
*
朝とは別の道だった。
山へ入る。
しばらく歩くと、小さな建物が見えた。
老婆が止まる。
中を指した。
「いるのか」
頷く。
俺は入口へ向かった。
そこで声が聞こえた。
かぐや。
もう一人。
女の声。
言い争っている。
内容は分からない。
だが、かぐやが怒っていることだけは分かった。
俺は入るのをためらった。
母娘の話だ。
俺が聞くべきではない。
そう思った直後。
「嘘じゃ!」
かぐやの声だけは、はっきり聞こえた。
続いて女の声。
かぐやが何か言う。
また女が答える。
そして。
俺にも分かる言葉が聞こえた。
翁。
俺は動きを止めた。
竹林でかぐやを見つけた老人。
母親からかぐやを託されたという男。
すでに死んでいる。
女が何か話す。
かぐやが否定する。
翁。
またその言葉。
老婆が俺を見る。
入れということらしい。
「いいのか」
頷く。
俺は中へ入った。
薄暗い。
かぐやがいた。
その向かいに、女が座っている。
金色の髪。
かぐやより少し濃い。
痩せていた。
年齢は三十代後半か、四十代くらいだろうか。
顔を見れば分かる。
似ている。
かぐやに。
母娘だと言われれば疑わない。
だが、かぐやは母親を見ていなかった。
床を見つめ――いや、睨み付けていた。
「かぐや」
俺が呼ぶ。
顔を上げた。
「何で来た」
「婆さんに連れてこられた」
老婆を見る。
かぐやも見る。
「余計なことを」
「帰ろうか?」
「……いや」
俺は少し離れて座った。
「何があった」
かぐやは答えない。
母親が何か言った。
俺には分からない。
「何て?」
かぐやは黙っている。
「かぐや」
「翁は」
ようやく口を開いた。
「わらわを拾ったのではない」
「それは知ってるだろ。お前の母親から預かったって」
「違う」
かぐやが顔を上げた。
「母は、翁にわらわを預けておらぬ」
俺は黙った。
「どういうことだ」
「翁が、わらわを連れて逃げた」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……誘拐?」
「その言葉は知らぬ」
「無理やり連れていった?」
「違う」
「じゃあ」
かぐやが母親を見る。
母親は静かに座っていた。
「母が言うには、翁はわらわを守るために連れて逃げた」
「誰から」
かぐやは答えなかった。
代わりに母親へ尋ねた。
女が話す。
長い。
かぐやが途中で何度か聞き返す。
俺は知っている単語を拾った。
都。
男。
子。
西。
血。
そして。
帝。
聞き間違いかと思った。
「今、何て言った?」
かぐやが俺を見る。
「何が」
「最後」
「みかど」
「……帝?」
「そう言うた」
俺は母親を見る。
嫌な予感がした。
「最初から訳してくれ」
「長い」
「頼む」
かぐやは嫌そうな顔をした。
だが、話し始めた。
「母たちが芳野へ来てから、都より何度か人が来た」
「ああ」
「西の者が持つものを欲しがった」
「技術?」
「その言葉は知らぬ」
「薬とか、金属とか」
「そのようなものじゃ」
「続けて」
「そのうち」
かぐやが止まる。
「何だ」
「母に、都へ来いと言う者が現れた」
「誰が」
「知らぬ。偉い者じゃ」
「それで?」
「母は行かなかった」
俺は女を見る。
「なぜ」
かぐやが尋ねる。
女が答える。
「何て?」
「怖かった、と」
それは分かる。
異国に近い出自の女が、都の権力者に呼ばれる。
断れる話なのかどうかすら、俺には分からない。
「それで翁が?」
「翁は母たちと親しかった」
「どういう人だったんだ」
「芳野の者だったと」
「竹を取って暮らしてた?」
「竹も取っておった」
そこだけ妙に竹取物語と同じだった。
「それで」
かぐやが続ける。
「わらわが生まれてから、また都より人が来た」
「お前を見に?」
「そうらしい」
「金髪だから?」
かぐやは母親へ聞く。
答え。
「それだけではない」
「じゃあ何だ」
かぐやが黙る。
「何だよ」
「父じゃ」
俺は止まった。
そういえば。
聞いていなかった。
かぐやの母親については何度も話した。
西から来た。
死んだと思っていた。
物語を教えた。
だが。
「お前の父親って」
「知らぬ」
「母親は知ってるだろ」
「知っておる」
「誰だ」
かぐやは母親を見た。
女は目を逸らさなかった。
何か言う。
かぐやが訳した。
「都の男じゃ」
「それだけ?」
「それだけじゃ」
「名前は」
女は答えない。
「知らない?」
かぐやが尋ねる。
女が首を振った。
知っている。
だが、言わない。
「なぜ」
女が何か話す。
かぐやの表情が険しくなる。
「何て?」
「言えば、わらわは都へ行かねばならぬ」
「なんで」
「血があるからじゃ」
血。
俺はさっき聞き取った単語を思い出す。
都。
血。
帝。
嫌な方向へ繋がっていく。
「待て」
俺は言った。
「まさか、お前の父親が帝だとか言わないよな」
かぐやが母親を見る。
質問を訳す。
女は。
笑った。
初めてだった。
そして首を振った。
俺は息を吐いた。
「違うのか」
かぐやが答えを聞く。
「帝ではない」
「よかった」
「何がよいのじゃ」
「いや、いきなり話が大きくなりすぎるところだった」
「もう十分大きい」
「確かに」
だが。
帝ではない。
それでも、都の人間。
名を明かせば、かぐやが都へ行かなければならなくなるほどの血筋。
そして、芳野の人間はかぐやを都に知られないよう連れ戻した。
ようやく少しだけ形が見えてきた。
「翁は、それを知ってた?」
かぐやが聞く。
母親が頷いた。
「それで、お前を連れて逃げた?」
「母が頼んだのではない」
「じゃあ勝手に?」
「違う」
「どっちだよ」
「母と翁が決めた」
「……それを預けたって言うんじゃないのか」
「違う」
「何が」
かぐやは唇を噛んだ。
「母も、一緒に行くはずだった」
俺は黙った。
「三人で?」
「うむ」
「でも母親は来なかった」
「来られなかった」
「なぜ」
母親が答えた。
かぐやはしばらく訳さなかった。
「何て?」
「捕まった」
短かった。
それだけで十分だった。
翁は幼いかぐやを連れて逃げた。
母親も後から合流するはずだった。
だが、できなかった。
翁は待ったのだろうか。
どれくらい。
母親が来ない。
追手が来るかもしれない。
幼い子供がいる。
そして、逃げた。
遠くへ。
竹のある土地まで。
「翁は」
かぐやが言った。
「母が死んだと言うた」
女が目を閉じた。
「嘘だったんだな」
「うむ」
「なぜ」
「知らぬ」
かぐやの声が震えていた。
怒っている。
母親に。
翁に。
どちらにも。
「守るためじゃないのか」
俺が言った。
「何から」
「母親を探そうとするだろ。生きてると知ってたら」
「当たり前じゃ!」
怒鳴られた。
俺は黙った。
そうだ。
当たり前だ。
だから翁は嘘をついたのかもしれない。
母親は死んだ。
帰れない。
探してはいけない。
そう信じさせることが、幼い少女を守る方法だった。
正しかったのかは分からない。
俺には決められない。
ただ。
俺は妙な感覚を覚えていた。
人間を守るために。
真実を隠す。
嘘を教える。
そして、その嘘を本人が信じるまで残す。
俺は、その方法を知っている気がした。
まだ。
自分が同じことをするとは、思っていなかった。
*
帰り道。
かぐやは一言も話さなかった。
俺も話さなかった。
芳野が見えてきたころ、ようやく口を開いた。
「なあ」
「何じゃ」
「お前、これからどうする」
「知らぬ」
「都へ行く?」
「知らぬ」
「母親と暮らす?」
「知らぬ」
「翁のこと、恨む?」
かぐやが止まった。
俺も止まる。
「知らぬ」
四度目だった。
だが、今度は何も言えなかった。
かぐやは前を向く。
「わらわは、何も知らなんだ」
「うん」
「母は死んだと思っておった」
「うん」
「翁が拾ったと思っておった」
「うん」
「ここがどこかも知らなんだ」
「うん」
「父が誰かも知らぬ」
「それは今もだな」
「うるさい」
「悪い」
歩き出す。
「でも」
俺は言った。
「一日で全部決めなくていいだろ」
「なぜ」
「知らないことが多いから」
「おぬしがそれを言うのか」
「俺だから言うんだよ」
分からないなら、調べる。
証拠が足りないなら、結論を出さない。
それくらいしか、俺には教えられない。
「お前の母親が何を言ってるのか。本当なのか。翁が何を考えてたのか。都が何をしたいのか。父親が誰なのか」
「多いな」
「多い」
「面倒じゃ」
「歴史なんてそんなもんだろ」
「れきし?」
「人が生きたあとに残る、面倒なもの」
かぐやが少し笑った。
「なら、おぬしも残すのか」
「何を」
「れきし」
俺は答えなかった。
未来から来た俺が、この時代に何を残すのか。
そんなことは、まだ考えたこともなかった。
*
その夜。
俺は昼間見た木の板について考えていた。
読めなくなった文字。
それでも残った物語。
そして、かぐやの家族について考えた。
死んだことにされた母親。
娘を守るためにつかれたらしい嘘。
事実とは違う記憶を抱えたまま育った少女。
奇妙だった。
その二つが、俺の中で離れなかった。
文字は残る。
意味は消える。
人は死ぬ。
名前も消える。
それでも、物語は残ることがある。
逆に言えば。
残したくない真実があるなら。
ただ消すだけでは駄目なのかもしれない。
空白は、人間に探される。
失われた記録は、復元される。
名前を削れば、なぜ削られたのかと疑われる。
なら。
空白を作らなければいい。
そこへ別のものを置けばいい。
真実より面白く。
真実より有名で。
誰も、その下に何かが埋まっているとは思わないほど馬鹿げた話を。
「何を考えておる」
声に驚いた。
かぐやがいた。
「いつからそこにいた」
「少し前から」
「声かけろよ」
「かけた」
「考え事してた」
「珍しい」
「そのくだり前にもやったぞ」
かぐやが隣に座る。
「何を考えておった」
「嘘について」
「面白い嘘か」
「いや」
俺は首を振った。
「人を守る嘘」
かぐやの顔から笑みが消えた。
「翁のことか」
「少し」
「母は生きておった」
「うん」
「翁は嘘をついた」
「そうだな」
「なら、悪い嘘じゃ」
俺はすぐには答えられなかった。
「そうかもしれない」
「違うのか」
「分からない」
「またそれか」
「便利なんだよ、この言葉」
かぐやは黙った。
俺も黙る。
しばらくして。
「でも」
俺は言った。
「嘘でしか守れないものも、あるのかもしれない」
かぐやが俺を見る。
「例えば?」
俺は答えようとした。
その瞬間。
月面基地が浮かんだ。
恋人。
火星。
骨。
俺が書かないと決めた、あのときの言葉。
そして、今日見た木の板。
読めなくなった文字。
それでも残った物語。
「まだ分からない」
俺は答えた。
「つまらぬ」
「本当のことだからな」
「なら仕方ない」
かぐやは空を見る。
月が出ていた。
俺も見る。
山のどこかには、二一一七年に作られた人工物がある。
あれがなぜここにあるのか、俺はまだ知らない。
かぐやの父親が誰なのかも。
都がなぜ彼女を欲しがるのかも。
母親たちがどの道を通ってこの国まで来たのかも。
何も分かっていない。
だが。
芳野へ来て、一つだけ分かったことがある。
俺がこれまで追いかけていたのは、未来から持ち込まれた謎ばかりだった。
違う。
ここには、俺が来るより前から謎がある。
この土地の人間が生きて。
愛して。
争って。
逃げて。
嘘をついて。
物語を語り継いだ結果として残った謎がある。
それを知らなければ。
たぶん俺は、かぐやのことを何一つ理解できない。
そして。
かぐやを理解できなければ。
俺がなぜこの物語を書くことになったのかも。
きっと理解できない。




