8.偽りの婚姻
ボールドウィン男爵との顔合わせ当日。
私はアメリアがニヤニヤ笑いながら持ってきた、いつの時代のか分からないほど古びたドレスに身を包んでいた。
色あせた生地はゴワゴワしており、サイズも微妙に合っていない。
「ふふ、まあ私にはお似合いの『ボロ衣装』ってわけね」
鏡の前で苦笑いを浮かべる。
露骨な嫌がらせだが、ルカと話し合った作戦通りだ。
最初から「冷遇されている惨めな娘」として登場した方が、男爵との話を進めやすい。
応接室に通されると、そこには威厳たっぷりにソファーに腰掛けるヘンリー・ボールドウィン男爵の姿があった。
噂通りの強面で鋭い目つきだが、その奥には商人らしい理知的な光が宿っている。
傍らには父親と継母、そしてアメリアが意気揚々と並んでいた。
「ボールドウィン男爵、こちらが長女のエリーゼでございます。
見ての通り不気味で無愛想な娘でして……」
父親が卑屈な笑みを浮かべて私を差し出す。
アメリアも「成金男爵にはお似合いですわ」とでも言いたげな顔で小さく笑っていた。
私は表面上、無表情な『人形令嬢』を演じながら、優雅に一礼してみせた。
「初めまして、ボールドウィン男爵様。
エリーゼ・オルセンと申します」
「……フン」
男爵は私を頭からつま先まで一通り見分けると、不意にニヤリと口元を吊り上げた。
その視線が、一瞬だけ部屋の隅にある小さな小窓へと向けられる。
小窓の隙間に、見覚えのある黒い毛並みと黄金色の瞳がチラリと見えた。
……ルカ、しっかり見守ってくれてるのね。
「伯爵。
挨拶も済んだことだ、少し娘と二人だけで話をさせてもらいたい」
「えっ……二人だけで、ですか?」
「不満か?
俺たちの将来についての込み入った話だ。
余計な邪魔が入っては困る」
男爵の圧に押され、父親たちは嫌々ながらも部屋を出て行った。
アメリアが最後に捨て台詞のようにフンと鼻を鳴らして出て行き、バタンと重いドアが閉まる。
静まり返った応接室。
男爵は優雅に紅茶を一口すすると、ドカッと深く椅子に背をもたれかけた。
「さて……エリーゼ嬢」
「はい、ボールドウィン男爵様」
「まずは率直に言おう。
俺はお前の父親のあの薄汚いツラと、根性の腐った態度に心底吐き気がしている」
(……ぶはっ!?)
あまりにもストレートな一言に、危うく表情筋が決壊しそうになる。
「先日、君の従兄弟殿が俺の屋敷に乗り込んできてな。
『エリーゼと商売の協力関係を結んでくれ』と必死に頭を下げてきたのさ。
……おい、入ってきていいぞ」
男爵が窓を開けて声をかけると、飛び込んできた黒猫が、銀色の光とともに少年の姿へと変わった。
ルカは耳まで真っ赤にしながら、申し訳なさそうに私を見つめている。
「ご、ごめんエリーゼ……!
見守るだけのつもりだったんだけど……」
「ううん、うれしいわ。
ありがとう、ルカ」
男爵は組んだ脚の上で指をトントンと叩き、鋭い眼光で私を見据えた。
「で、どうなんだエリーゼ嬢。
俺が欲しいのは伯爵家という『由緒ある家柄』との繋がりと、俺の事業をさらに飛躍させる『面白い物語の案』だ。
お前が俺にそれを提供できるなら……形だけの『白い結婚』を受け入れ、お前をこのゴミみたいな伯爵家から買い取って救い出してやる。
――どうだ?」
「素晴らしいご提案ですわ、ボールドウィン男爵」
私は不敵な笑みを浮かべ、男爵の目をまっすぐ見つめ返した。
「そのお話、喜んでお受けいたします。
絶対にあなたに損はさせません」
そうして、契約は即座に結ばれた。
男爵は婚約どころか、婚姻の届出を含む諸々の書類を用意してきていた。
書類に書かれていた結納金の金額の大きさに、父である伯爵は、その場ですぐに書類にサインした。
こうして私の身柄は、即日、ボールドウィン男爵家へと引き渡されることになったのだ。
「ふん、さっさと出ていくがいい!
ボールドウィン男爵も、こんな役立たずを引き取ってくれて感謝いたしますよ」
父親はニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら私を追い払った。
アメリアも「ふふっ、あなたにお似合いの成金男爵様と、どうぞお幸せに!」と勝ち誇った顔で見送ってくる。
(あはは、バカね。
あなたたちが手放したのは、これから王国中のエンタメ界を揺るがす最高のビジネスパートナーだってことも知らずに)
私は心の中で冷ややかに笑いながら、男爵が用意してくれた立派な馬車へと乗り込んだ。
こうして私は、長年私を苦しめてきた劣悪な伯爵家から、合法的に、そして晴れやかに脱出したのだった。




