6.男爵との交渉(ルカ視点)
ルカ(ヒーロー)視点です。
月明かりの下、僕は黒猫の姿で夜の街を駆けていた。
目指すは、成金と噂されるボールドウィン男爵の屋敷だ。
(エリーゼ……)
頭の中に浮かぶのは、実家でメイド扱いされている従姉妹のことだ。
子どもの頃から、僕はエリーゼのことがずっと好きだった。
彼女は感情が乏しくて、伯爵家の使用人からは「人形令嬢」なんて陰口を叩かれていたけれど、僕と一緒に遊んでいる時だけは、ふっと柔らかく目を細めたり、かすかに口元を緩めて楽しそうにしてくれていたのだ。
「自分だけに本当の表情を見せてくれている」――幼い僕にとって、それは飛び上がるほど誇らしくて、嬉しいことだった。
最近彼女から「前世の記憶」の話を聞かされた時は、幼少期のあのどこか浮世離れした雰囲気や感情の薄さの理由がストンと腑に落ちて納得がいった。
前世の記憶を取り戻してからのエリーゼは、表情がコロコロと変わり、生き生きとしていて、幼い頃の静かな彼女とはかなり雰囲気が違う。
けれど、前世の知識を活かそうと瞳を輝かせる今の明るいエリーゼも、僕はたまらなく愛おしいと思うのだ。
(あんなに伯爵たちに虐げられて、今度は見知らぬ男爵のもとへ売り払われるなんて……そんなの、僕が許すもんか)
エリーゼは前世の面白い物語を無数に知っているので、劇の興行をしているボールドウィン男爵とその線で取り引きしてみるつもりだと言う。
けれども僕はエリーゼ一人に男爵と交渉させる気はない。
35歳の成金男爵がどんな男かもわからないのに、彼女一人で交渉するのは危険だと思う。
ボールドウィン男爵の屋敷のバルコニーへとすべり込み、明かりのついている室内へ忍び込む。
部屋の奥では、高級そうなデスクに向かって書類を検分している男——ヘンリー男爵の姿があった。
僕はすっと息を呑み、魔力を練り上げる。
「――こんばんは、ボールドウィン男爵」
黒猫の姿から光とともに人間の姿へと戻りながら、僕はまっすぐに男爵を見据えた。
「……誰だ!?」
男爵が瞬時に立ち上がり、鋭い目つきでこちらを睨みつける。
さすがは修羅場をくぐってきた男、隙がない。
「突然このような形でお邪魔して申し訳ありません。
ルカ・シルヴァンと申します。
オルセン伯爵家の長女、エリーゼ・オルセンの従兄です」
「シルヴァン子爵家の……?
フン、猫が人間に変わるとは面白い手品だな。
で、そのガキが俺に何の用だ?
伯爵家からの使いか?」
「違います。
……エリーゼとの縁談の件で、取引をしに来ました」
僕は膝が震えそうになるのを堪え、男爵の鋭い視線を正面から見つめ返した。
「エリーゼは伯爵家では他の家族から虐待され、メイド同然にこき使われています。
僕はエリーゼをあんな劣悪な伯爵家から救い出したいんです。
でも……っ」
一気に言葉を吐き出そうとした僕を、男爵は品定めするような目で見つめた。
そして、ふっと口元を歪めると、楽しそうに片眉を上げる。
「ほう……。
わざわざ変身魔術まで使って乗り込んできて、そんなに必死になって……。
おいガキ、貴様、あの娘のことが好きなんだな?」
「ッ……!?」
心臓がドクンと跳ね上がり、顔が一気に熱くなるのが分かった。
一瞬で本心を見抜かれて言葉に詰まる僕を見て、男爵は「図星か」とニヤリと笑う。
「……そうです」
僕は拳を強く握り締め、真っ赤になった顔を上げ、男爵の目をまっすぐ見つめた。
「僕は、エリーゼのことが好きです。
彼女は『これで伯爵家から合法的に逃げられる』って喜んでるけど……僕としては、誰かとの結婚なんて……あなたとの結婚なんて、絶対にしてほしくない!」
「ハハッ!
面と向かって俺との結婚を拒絶か。
いい度胸じゃねえか」
「自由と引き換えに彼女を渡すなんてできません!
けど今のままじゃ彼女を助けられないのも事実です。
だから……お願いです、ボールドウィン男爵!
僕と、そしてエリーゼに協力してくれませんか!?」
「協力、ねぇ」
男爵は顎を撫でながら面白そうに目を細めた。
「実はな……俺もあのオルセン伯爵のドブネズミみたいなツラには反吐が出そうだったんだよ。
俺が欲しいのは伯爵家という由緒ある家柄との関わりだけだから、もしそれを上回る利益があるのなら、協力してやらないこともない。
……貴様らは俺にどんな利益をもたらしてくれるってんだ?」
男爵の問いかけに、僕は用意してきた答えを返す。
「エリーゼは、新しい物語のアイデアが山のようにあるそうです。
それに僕も、この魔術で男爵の事業を全力で手伝います。
僕の魔術だって、絶対に男爵の役に立ちます!」
「ほう……?」
男爵はフッと満足げに口元を吊り上げると、組んでいた脚を組み替えた。
「ガキが惚れた女のために必死の交渉か。
……ふん、あの伯爵様より、将来性のある魔術師の方が投資のしがいがありそうだ。
いいぜ、協力してやる。
その代わりに大魔術師様になって、せいぜいうちの役に立ってくれ」
「ボールドウィン男爵……!
ありがとうございます!」
「勘違いするなよ。俺は損をする取引はしねえ。
近々、正式な顔合わせの場を設ける予定だったが……どうやらただの退屈な茶会にはならなさそうだな」
そう言って、男爵はニヤリと笑ったのだった。




