3.前世の話
冷たい井戸水でかじかむ手をこすり合わせながら、私はひたすらジャガイモの皮をむいていた。
洗濯物を干し終えた後も、私の仕事が終わることはなかった。
屋敷の廊下の雑巾がけに始まり、大量の野菜の仕込み、厨房の汚れた皿洗い……。
次から次へと下働きの仕事が降ってくる。
伯爵令嬢とは名ばかりで、扱いは完全に給料の出ない無口なメイドだ。
(……うわあ、労働環境ブラックすぎるでしょ!
前世の社畜時代だって、こんなに朝から晩まで立ちっぱなしで肉体労働させられなかったよ!)
脳内では文句があふれているが、表面上の私は相変わらず無表情を貫いている。
(今まで「人形令嬢」だったのに、急に明るく元気な性格に変わったら、さすがに周りの使用人たちに「頭でもぶつけたか?」って気味悪がられるもんね。
……あ、実際頭はぶつけたんだけど)
というわけで、日中は前世の営業スマイルならぬ人形モードを維持してやり過ごした。
感情を殺してロボットのように働くのは、精神的にかなり気疲れする。
だが、幸いなことにアメリアや継母とはあれ以降顔を合わせずに済んだ。
あの性悪異母妹に再び目をつけられるよりは、黙々と皿を洗っている方が100倍マシだ。
(あ、そういえば……)
厨房の勝手口から裏庭をチラリと覗くと、日当たりのいい芝生の上で、あの黒猫ノワールが丸くなって寝そべっているのが見える。
どうやら今日は一日中、この裏庭で過ごしていたらしい。
(猫って気まぐれだしねぇ。私のヘンテコな独り言なんて、もう忘れちゃったかな)
やがて日が落ち、屋敷の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
ようやくすべての雑用を終えた私は、重い足取りで自分の部屋へと向かった。
私に与えられている部屋は、屋敷の本館ではなく、裏庭の隅の古い小屋だ。
かつて駆け落ちしたという実母の相手――庭師の男性が作業道具を置いていた物置小屋である。
「う~……疲れたぁ……」
ギー、と鈍い音を立ててドアを開ける。
部屋の中にあるのは、ガタついた机と椅子、そして粗末な藁のベッドくらいだ。
伯爵令嬢の部屋としてはあまりにも酷い有様だが、一人になれるプライベート空間があるだけ、今の私にはありがたかった。
パタンとドアを閉め、深々と息を吐き出す。
これでようやく、『人形令嬢』としての長かった一日が終わる。
「ふう……やっぱり自分の部屋が一番落ち着くね」
私はドサリと藁のベッドの上に倒れ込み、疲れ果てた身体を横たえて天井を仰ぐ。
すると、小屋の窓の隙間から、ガサリと小さな音がした。
「……あ」
月光を背にして、すっと室内に滑り込んできたのは、つやつやとした黒い影――黒猫のノワールだった。
しなやかな足取りで床に降り立つと、なぜか「大丈夫……?」とでも言いたげな、妙に人間くさい心配そうな目つきで私を見上げてくる。
「ノワール! 来てくれたんだ」
私は嬉しくなって体を起こし、ポンポンと藁のベッドを叩いた。
ノワールは一瞬躊躇したものの、意を決したようにトコトコと歩み寄り、私の隣にちょこんと丸まった。
ありがたく、柔らかくて温かいその背中を撫でさせてもらう。
「はぁ〜癒やされる……。
今朝から前世の記憶が戻って感情も戻ったのに、他の人に怪しまれないように無表情でいたから、いつもより疲れちゃったよ。
今までは何とも思わなかったけど、前世の記憶が戻ったら、あれもこれも不便に感じてイライラしちゃうし。
ねえ、聞いてよノワール、私が前世で暮らしていたのは、こことは違う世界の『日本』っていう国でね──」
私はノワールの背中を撫でながら、ぽつりぽつりと前世の話をする。
ボタンを押すだけで洗濯ができる洗濯機。
カット済みの肉や野菜、出来上がった料理までもが真夜中でも買えるコンビニ。
こんなフカフカとは程遠い藁のベッドじゃなくて、ふんわりとした羽毛布団で毎日眠ることができた、前世での暮らし。
「……あーあ、日本のラーメン食べたいなぁ。
コンビニの肉まんも最高だったのに」
私が懐かしそうに語るたび、ノワールは耳をピクピクと動かし、時折「……にゃ」と相槌を打つように小さく鳴く。
そのリアクションは、まるで私の話を100%理解しているかのように完璧だった。
「ふふ、ノワールは良い聞き手だねぇ」
たっぷり前世の思い出話を語ってスッキリしたところで、私は体を起こした。
「さてと、汗もかいたし着替えて寝ようかな」
ノワールが「えっ」と目を見開くのも気にせず、私はワンピースに手をかけた。
まあ相手は猫だしね!
実家で飼っていたペットの前で着替えるようなものだ。
気にも留めずにすっぱりと服を脱ぎ捨て、薄手でボロい寝巻きに着替える。
着替えを終えて振り返ると、なぜかノワールは顔を両前脚で覆い隠し、全身をガタガタと震わせていた。
(……ん?)
そんなノワールの様子に首を傾げる。
朝、ノワールと会った時から、なんとなく思ってはいたのだ。
「前世の記憶」と言った時の、あのピンと固まったリアクション。
私の日本の話に、妙に納得したように頷く仕草。
そして、今のあからさまに「目の毒!」と言わんばかりの恥ずかしがり方。
(……いくら異世界といっても、猫ってここまで人間味あふれる反応するものなのかな……?)
私はベッドに膝をつき、ジリジリとノワールへ顔を近づける。
ふと思い出す。
ここは魔法が存在する異世界ファンタジーの世界だということを。
「……そういえば、忘れてたけど」
私の至近距離からの声に、ノワールがビクッと体を跳ねさせる。
「この世界って、魔法があるんだったよね。
……ねえ、ノワール?」
私は逃がさないようにノワールの胴体をそっと抱き抱え、その黄金色の瞳をじっと覗き込んだ。
「もしかしてあなた……どこかの魔術師の使い魔とかだったりする?」
「――ッ!!??」
ノワールの体が、この日一番の硬直を見せた。




