2.黒猫
とりあえず。
頭のタンコブを冷やす氷なんて当然この家には存在しないので、冷や汗をかきながら現実逃避……もとい、お洗濯を始めることにした。
「痛たた……いや本当に、タンコブだけで済んで良かったよ」
ふう、と溜め息をつきながら、アメリアが投げ捨てていった桶の中身を確認する。
いったいどこで汚してきたのか、白いシーツは泥まみれになっている。
(……ほんと性格悪いよね、あの妹!
えーっと、確か湿った泥をいきなり水で洗ったら、余計に生地の奥に入り込んで泥染みになるんだよね。
一度干してしっかり乾かしてから、ブラシで泥を払うといいんだっけ)
前世でテレビか何かで見た知識を思い出して、シーツについた葉っぱだけは取ってから洗濯紐にかける。
とりあえず泥が乾くまでは、このまま放置だ。
続いて、元々持ってきたカゴに入っていた大量の洗濯物に取りかかる。
タライの冷たい水に手を浸し、ゴシゴシと布地をこすり合わせながら、私は頭の中で現状の整理を始めることにした。
(それにしても……15年、か)
この世界で「エリーゼ」として生きてきた15年間。
思い返してみても、自分の記憶なのにどこか他人事みたいにモヤがかかっている。
何をされても悲しくないし、悔しくもない。
感情が顔に出ないだけでなく、感情自体が薄い、まさに『人形』のような日々。
(前世の記憶があるのにずっと思い出せなくて、魂の一部がどっかにすっぽ抜けちゃってたのかな。
だから感情のスイッチが壊れてたのかも)
頭をぶつけたショックでその「欠けていたパーツ」がカチッとハマり、ようやく私は私になれた、というわけだ。
……いや、そのスイッチの押し方が「妹に突き飛ばされて壁に激突」ってのはどうなのと思うけど!
タライの水を変えて布をすすぎながら、ふと、幼い頃に姿を消した実の母親の顔が頭に浮かんだ。
(お母様……)
感情を取り戻した今の頭で、当時の幼い記憶を巻き戻してみる。
幼少期、たまに顔を合わせるお母様は、いつもどこかピリピリとイライラしていた気がする。
当時は「怖いなぁ」くらいにしか思っていなかったけれど、今なら理由がよく分かる。
(あの頃からもう、お父様の浮気……継母と異母妹の存在に気づいていたんだわ。
そりゃイライラもするし、精神的にも追い詰められるよね……)
そう考えると、お母様が庭師の男性と駆け落ちして失踪したのも、責めきれない気がしてくる。
追い詰められた末に、優しくしてくれた男性に救いを求めちゃったのかもしれない。
(もし……もしも当時の私に、ちゃんと普通に感情があって。
お母様に甘えたり、泣いたり笑ったりして、私という子どもがお母様の生きがいになっていたら……お母様も踏みとどまって、駆け落ちなんてしなかったのかな)
そんな考えが胸をよぎり、ちくりと胸が痛む。
でも、すぐに思い直して小さく首を振った。
(いやいや、待って。
そもそも私、物心ついた頃から乳母に丸投げされてて、お母様と会うこと自体ほとんどなかったじゃん!
子どもひとりの努力でどうこうできるレベルの家庭環境じゃなかったわ!)
なんとなく責任を感じてしまったけれど、私よりもっと悪いのは浮気して母をおろそかにした父と、追い詰められたとはいえ貴族としての責任を投げ出して逃げた母自身の方だろう。
どっちにしろ、私がうじうじ悩んだって過去が変わるわけでもないから考えるだけ無駄だ。
「よしっ!
過去のことはさておき、まずはこの泥シーツと山盛りの洗濯物を片付けなきゃ!」
パンパンと頬を叩き、私はタライの水の中に再び手を突っ込んだ。
──────
――バサッ、バサッ。
洗い終えた洗濯物をパンパンと叩いてシワを伸ばし、裏庭のロープに干していく。
ふう、と額の汗を拭ったところで、勝手口の脇にある茂みがガサリと揺れた。
「ん……?」
視線をやると、茂みの隙間から、つやつやとした黒い毛並みがひょっこりと顔を出している。
大きな黄金色の瞳。
しなやかな身体つき。
いつもこの裏庭にやってくる、一匹の黒猫だ。
「あっ、猫ちゃん!
猫ちゃん、おいでおいでー」
私は思わず破顔して、地面にしゃがみこむとパチパチと手を叩いた。
あー、えーっと……ノワール、だっけ?
記憶をたどれば、感情の薄かった頃の私でも、この子だけには少しだけ心を開いていた気がする。
確か勝手に『ノワール』って呼んでたっけ。
「ノワール、おいでー」
いつも通り優しく手招きしてみたのだが――ノワールは、なぜかピクリと身体をこわばらせた。
黄金色の瞳をこれでもかと見開き、ジリジリと後ずさりしていく。
まるで『なんだこの不審者は!?』と言わんばかりの警戒モードだ。
「あー……ごめんねー、いつもと違うからびっくりするよねー」
まあ、無理もない。
この間までロボットみたいに無表情で「あ、猫」くらいしか反応しなかった人間が、急に満面の笑みで「おいでおいでー!」なんてテンション高く話しかけてきたのだ。
猫からしたらホラーでしかないだろう。
「あのねー……なんか私、今さっき、前世の記憶を思い出しちゃって」
しゃがんだまま、へらりと笑って白状してみる。
誰にも言えない秘密だけど、まあ、猫相手ならいっか!
言葉が通じるわけじゃないし、愚痴を聞いてもらうくらい罰は当たらないはず。
そう思った、次の瞬間。
「……ッ!?」
ノワールが、ピーンッ!!と尻尾を真上に立てて固まった。
黄金色の瞳が、驚いたようにまんまるに見開かれている。
耳もピンと立ったまま、微動だにしない。
(えっ……えええ……!?)
そのあまりにオーバーなリアクションに、今度はこちらがびっくりだ。
「あれ、なんかすごくびっくりしてる……?
私の言ってること、もしかしてわかってたりするのかな。
……すごーい! 異世界の猫ってかしこいんだねぇ」
固まったままのノワールに感心しながら、私はのんきに感嘆の声を漏らすのだった。




