1.人形令嬢
オルセン伯爵家の裏庭に面した石造りの勝手口から、一人の少女が出てきた。
灰色のつぎはぎだらけの古いワンピースに、ろくに櫛も通されてないような傷んだ金髪。
けれどもうつむき加減のその顔立ちは、痩せこけてはいるものの、よく見れば整っているのがわかる。
少女はたくさんの洗濯物が入ったかごを抱えている。
「これ、追加よ。
きれいに汚れが落ちるまで、しっかり洗いなさいよ!」
突然、甲高い声とともに、どさりと重い音が響いた。
彼女が投げ捨てた桶の中には、白い綿のシーツが詰め込まれている。
だがその表面には、つい先ほど意図的にすりつけられたような、生々しい泥と落ち葉がべったりと付着していた。
声を張り上げたのは、色鮮やかな桃色のドレスを身に纏った少女――アメリア・オルセンである。
オルセン伯爵が外で作った娘であり、粗末な服の少女とは同い年の、異母妹にあたる。
「……かしこまりました、アメリア様」
足元に置かれた泥だらけのシーツを見下ろしながら、粗末な服の少女――エリーゼ・オルセンは静かに頭を下げた。
その声には、怒りも、悲しみも、悔しさの欠片も含まれておらず、淡々とした響きだった。
――エリーゼは伯爵家の長女である。
しかし、彼女が幼い頃に実母が庭師と駆け落ちして失踪して以来、この館における彼女の立場は一変した。
父親はすぐさま愛人とその娘であるアメリアを屋敷に連れ込み、本妻の娘であるエリーゼを徹底的に冷遇し始めたのだ。
それからというもの、エリーゼは庭師が使っていた小さな小屋に追いやられ、給料のいらないメイドがわりとして毎日こき使われていた。
「……なによ、その顔」
アメリアが不機嫌そうに眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせずに地団駄を踏む。
「せっかく私が、貴女のためにわざわざ泥で汚して持ってきてあげたのよ?
少しは困った顔とか、泣き顔とか見せられないわけ!?」
「……」
無言のエリーゼの碧眼は、まるでガラス玉のように変化がない。
何を言われても、何をされても、感情が一切表れない。
彼女は幼少期から「何を考えているかわからない気味の悪い子供」として扱われ、いつしか屋敷の者たちから『人形令嬢』と揶揄されるようになっていたのだ。
「っ……気持ち悪い!
ほんっとうに気持ち悪いわね、あんたって!」
望んだ反応が得られず、かえって馬鹿にされたように感じたアメリアの顔が、怒りで真っ赤に染まる。
胸のすくような悲鳴を聞きたかった。
惨めに泣き叫び、許しを請う姿を見たかったのだ。
それなのに、目の前の異母姉は、相変わらず表情のない顔で泥シーツを拾い上げようとしている。
「触らないでよ、人形が!!」
感情を爆発させたアメリアは、両手で思い切りエリーゼの華奢な肩を突き飛ばした。
「――っ!?」
無防備だったエリーゼの身体は、いとも簡単に後方へと弾き飛ばされた。
バランスを崩し、石畳の上に倒れ込む――その瞬間、後頭部が勝手口の頑丈な石壁に強く激突する。
――ゴツンッ!!
鈍い衝撃音が裏庭に響き渡る。
エリーゼの視界が真っ白に染まり、頭の奥底で、何かが激しく弾けるような音がした。
(あ、痛い……痛い痛い痛い!
何これ、頭が割れる――)
痛覚とともに、脳内に怒涛の勢いで『情報』が流れ込んできた。
満員電車。オフィスビル。パソコンのキーボードを叩く音。広報部のデスクで書類の山と戦っていた日々。
二十代後半、日本の企業で必死に働いていた「自分」の記憶。
(私……社会人だった!?
広報部でプレゼン資料作ってて、確か仕事帰りに信号無視の車にひかれて――)
前世の記憶と、この15年間「エリーゼ」として生きのびてきた記憶が、急速に結びついていく。
今まで曇りガラスを隔てているかのようにぼやけて色褪せていた世界が、一気に鮮明に色づいて弾けた。
「……ふん。大袈裟に転んでみせて、何なのよ」
頭を押さえて地面にうずくまるエリーゼを見下ろし、アメリアは鼻を鳴らす。
「まあいいわ。
そのシーツ、ちゃんと洗っておきなさいよ。
もしきれいにできなかったら、今日の晩ご飯抜きだからね!」
アメリアはそう吐き捨てると、フンと顔を背け、足音を立てながら屋敷の中へと戻っていった。
静まり返った裏庭に、エリーゼだけがポツンと残される。
「……いたたたた……」
頭の大きなタンコブを押さえながら、エリーゼはゆっくりと体を起こした。
その瞳には、先ほどまでのガラス玉のような虚無感は一切ない。
前世の知識と意識を取り戻した彼女の瞳には、はっきりと自分の意志という光が宿っていた。
「痛い……けど……」
ぬかるんだ地面と、散らばった泥だらけのシーツ。
そして自分の着ているボロ布のような服を見つめ、エリーゼは深々と息を吐き出した。
「……嘘でしょ。
もしかしてこれ、異世界転生……!?
しかも、伯爵令嬢なのにメイド扱いで、挙句に異母妹にいじめられてるって……どういうこと?」
無表情だった「人形令嬢」が、一瞬にして前世の社会人らしい苦々しい表情へと塗り替えられた瞬間だった。




