第7話「降りる」
わたしは、ひとつだけ依頼を受けることにした。
依頼人は、わたしだ。
着信が鳴っていた。
真鍋透。
画面に、その名前が光っている。
いつもなら、ワンコール目で出た。
ツーコール目に出ると、機嫌が悪くなるから。
わたしは画面を見ていた。
ただ、見ていた。
三コール。
四コール。
指は動かない。
いや。
動かさなかった。
切れた。
不在着信がひとつ。
続けて、メッセージが届く。
『律子ちゃん、今どこ? 金、いるんだけど』
わたしは、それを読んだ。
声に出して、読んでみる。
「金、いるんだけど」
主語がない。
いるのは彼で、出すのはわたし。
六年、その文に主語は要らなかった。
わたしはスマホを伏せた。
画面の光が、テーブルの上で消える。
出ない。
たったそれだけのことに、心臓がばかみたいに鳴っていた。
六年かけて踏み出せなかった一歩は、こんなに小さかった。
◆◇
家に帰ると、透はソファにいた。
脱いだ靴下が、二つ、別々の方向へ転がっている。
わたしのコートを掛ける場所を、それが塞いでいた。
「電話、出なかったろ」
透は、こちらを見もしない。
ゲーム画面に目をやったまま言う。
「金いるって言ったよな。三十でいい。いや、五十あると助かる」
わたしはコートを畳み、椅子の背に置いた。
それから、彼の正面に立った。
法廷で、結審を待つときの息の止め方を、わたしは知っている。
恐怖を、声に混ぜない。
「もう、貢がない」
短い言葉だった。
断罪も、説明も入れなかった。
ただ、事実を述べた。
◆◇
透の指が止まった。
「……は?」
画面から目を上げる。
その目に最初に出たのは、怒りではなかった。
計算だった。
どう言えば、わたしが折れるか。
六年分のデータをめくる目。
「なに、急に。なんかあった?」
声が柔らかくなる。
透は立ち上がり、近づいてきた。
「俺さ、律子ちゃんのこと、ほんと——」
目に涙が盛り上がる。
器用な人だ、と思った。
昔は、これで胸が痛んだ。
今は、ただ観察していた。
涙の出る速さ。
声の震わせ方。
少し伏せる顎の角度。
うまい。
うますぎて、それが全部、嘘だと分かった。
「泣かないで」
わたしは言った。
冷たくも、優しくもなく。
「演技、上手だね。でも、もう客席に、わたしはいないの」
涙が止まった。
スイッチを切るみたいに。
次に出てきたのが、本当の彼だった。
「は? なに様だよ」
声が低くなる。
「お前なんか、俺がいなきゃ誰も相手にしねえだろ。四十六だぞ。子供もいない。仕事だけの、つまんねえ女。それを俺が、そばにいてやったんじゃねえか」
言葉が刃のように来た。
不思議だった。
その刃の一本一本に、わたしは覚えがあった。
それは、彼の言葉ではない。
わたしが夜中に、自分へ囁いていた言葉だ。
彼は、わたしの嘘を声に出して読んでいるだけ。
わたしが書いた台本を。
だから、もう刺さらなかった。
◆◇
わたしは鞄から一枚の紙を出した。
昨夜、事務所で作った、退去に関する通知書。
「ここを出ていって。期限は書いてある」
ペンを添えて、テーブルに置く。
「話、終わってねえぞ」
「ええ。でも、手続きは始まってるの」
透の声が荒くなる。
わたしは、もう聞いていなかった。
弁護士は、感情で縁を切らない。
手続きで切る。
透がドアを蹴って出ていくまで、わたしは立っていた。
勝ったとは思わなかった。
高揚もなかった。
ただ、部屋が静かになった。
その静けさが、やけに広かった。
脱ぎ捨てられた靴下が、床に残っている。
わたしは、それを拾わなかった。
拾うのは、いつもわたしの役目だった。
その役目を、たった今、辞めたのだ。
冷蔵庫が低く唸った。
その音が聞こえた。
六年、聞こえていなかった音だ。
部屋は、ずっとこんな音を立てていたのに。
◆◇
一人になった部屋で、引き出しを開けた。
いちばん奥。
封筒の下。
通帳があった。
六年、開けるのが怖かった通帳。
残高を見れば、いくら貢いだか分かってしまうから。
わたしは、それを開いた。
数字は寂しかった。
四十六歳の弁護士の残高とは思えないほどに。
ページをめくる。
引出の履歴が、几帳面に並んでいる。
日付。
金額。
振込先。
ときどき、わたしの字で書き込みがある。
立て替え。
貸し。
後日返済。
戻ってこないと知りながら、わたしはそれを貸しと書いていた。
いちばん上手な嘘は、自分にだけつく嘘だ。
でも、見た。
目を逸らさずに、最後の行まで見た。
勝訴ではない。
和解でもない。
ただ、わたしは、自分という案件から降りなかった。
それだけだった。
◆◇
数日が過ぎた。
母の形見の腕時計は、探さなかった。
たぶん、もうない。
売られたのか。
捨てられたのか。
同じものを買い直す、という考えが浮かんだ。
高くても、似たものを見つけて。
でも、やめた。
失くしたものを、お金で埋め直す。
それが、わたしのいちばん古い嘘だった。
埋めない。
空いたまま、置いておく。
その痛みは、わたしのものだ。
その朝、わたしは台所に立った。
立ち食いのゼリー飲料ではなく。
一人分の味噌汁を作った。
出汁を取る。
自分のために。
「あなたは、一人でも生きていける」
ずっと、誰かに言われたかった言葉を、初めて自分に言った。
声は、少しだけ戻っていた。
◆◇
その日の午後。
事務所のドアがノックされた。
女が一人、立っていた。
三十代半ば。
顔色が白い。
頬の肉が削げている。
眠れていない目。
わたしは、その目を知っていた。
鏡の中で、毎朝見ていた目だ。
彼女の指先が、バッグの持ち手を強く握っている。
爪が白くなるほど。
手放したいのに、手放せない人の握り方だった。
「あの……離婚のことで」
彼女の声は小さく、語尾が消えた。
わたしは彼女を座らせ、白湯を出した。
話を聞いた。
夫の借金。
彼女のパート代。
主語のない、お金の話。
全部、覚えのある話だった。
◆◇
帰り際.
彼女が何度も頭を下げて、ドアに手をかけたとき。
わたしは引き出しから、一枚の白い名刺を取り出した。
慈恩
気づかせ屋
電話番号だけ。
住所はない。
わたしも、いつか、こっそり渡された。
「もし、よかったら」
それを、彼女の手にそっと握らせた。
彼女は不思議そうに名刺を見た。
でも、捨てずに握って帰っていった。
◆◇
窓の外を見た。
神宝町の方角。
遠く、低い屋根の連なり。
あの喫茶店の窓のあたりに、細くまっすぐ、煙草の煙が立っているような気がした。
わたしは、メールを送らなかった。
お礼も、報告も。
白い名刺は、わたしの手を離れた。
名刺は、そうやって街の隙間を渡っていく。
誰かが、自分の依頼人になる日まで。
「勝訴」じゃない。「和解」でもない。彼女はただ、自分という案件から、降りなかった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。桐生律子の七話に、もし何か残るものがあったら、★で評価をいただけると、とても励みになります。読み終えた今の一押しが、この話を次の誰かに届けてくれます。
白い名刺は、彼女の手を離れて、街の隙間を人から人へ渡っていきます。次に受け取るのは、また別の誰か。燃えカスの守り人シリーズには、神宝町で慈恩に会った人たちの話が、ほかにもあります。律子の隣に座っていた女の続きが気になった方は、作者ページからどうぞ。
出汁を、自分のために取る。たったそれだけのことを、彼女は六年かけて取り戻しました。
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