第6話「降りるだけ」
笑うしかない、というのは、こういう時に言うのだと、四十六で初めて知った。
神宝町の駅前。
夜の九時。
珈琲 鈴蘭。
古い喫茶店だった。
曇ったガラスの向こうで、琥珀色の灯りがにじんでいる。
ドアを押すと、低く、古いジャズが鳴っていた。
わたしが、自分からかけた電話番号。
その人が指定した店。
四十六年生きてきて、自分から助けを求めたのは、これが初めてだった。
依頼を受ける側だった人間が、初めて、依頼する側に回った。
奥の窓際の席。
糸目の男が、ひとり座っていた。
痩せた身体。
白い肌。
紙みたいに血の気の薄い指で、煙草をゆっくり回している。
歳は読めない。
わたしより上にも、下にも見える。
名刺の通りの人だった。
「桐生さん」
声を聞いただけで分かった。
軽く手を上げた、その指先まで。
この人は、わたしを、はじめから観ている。
◆◇
テーブルの真ん中に、白い小さな皿。
その上に、線香が一本。
男は、わたしが座る前にそれを立てた。
甘い、白檀の匂い。
「気になりますか」
「……ええ、まあ」
「ぼくの癖です。話を聞く前に、立てるんですよー」
語尾を伸ばす話し方だった。
それだけ言って、理由は言わなかった。
マッチの軸が、しゅ、と鳴る。
細い煙が一本、立ちのぼる。
白檀の匂いが、煙草の匂いに重なった。
わたしは向かいに座る。
膝の上で両手を組んだ。
法廷で、相手の主尋問を聞くときの姿勢だ。
二十年、染みついた姿勢。
ばかみたいだと思った。
ここは、法廷ではないのに。
◆◇
「あのね、慈恩さん」
わたしは笑った。
「わたし、桐生律子っていって、弁護士んです。これでも敏腕って呼ばれていました。離婚も、相続も、損害賠償も、負けたことがない。勝率で言えば九割。新聞にも載ったことがある」
「ええ」
「その敏腕弁護士が、ね」
コーヒーに口をつける。
苦かった。
「ヒモに、財布ごと負けました」
「ええ」
「四十六歳の女が、三十四歳の男に、六年で二千万。判例にもない大敗訴です。控訴もできません。証拠はぜんぶ、わたしの振込履歴ですから」
わたしは声を立てて笑った。
自分でも怖いくらい、大きな声で。
慈恩は笑わなかった。
うなずきもしない。
ただ、糸目の奥で、わたしの笑っている口元を見ていた。
その奥の、笑っていない場所を見ていた。
「ええ」
ただ、それだけ。
見抜かれていると思った。
それでも、言われない。
ただ、観られている。
◆◇
「おかしいでしょう」
わたしは止まらなかった。
「人を見る目には自信があったんです。法廷で嘘つきを何百人も見てきた。声の震えで分かる。目の動きで分かる。あの男も、最初から見抜いていました。ああ、これは、わたしの金が目当てのだめな男だって」
「ええ」
「なのに、貢いだ。見抜いたうえで、貢いだんです。スーツも、時計も、車も。月々の家賃も。『来月から働く』って言うたびに渡した生活費も。面接に行くと言って、パチンコのレシートだけ持って帰る人に、ね」
笑おうとした。
けれど、喉が動かない。
「前の女の借金まで、払いました」
慈恩は、灰を落とした。
とん、と皿の縁で。
わたしの言葉を待っている。
次の一言を奪わない。
その間が、怖かった。
◆◇
声が止まった。
喉の奥がふさがる。
線香の煙が、まっすぐ立っていた。
揺れもせず、天井へ昇っていく。
わたしは、その煙を見ていた。
二十年、人の嘘を見抜いてきた目が、たった一つの嘘だけ、見ようとしなかった。
「……あの男が」
声が掠れる。
「他にも、いたんです。わたしの他に。同じことをさせられていた女が、三人。たぶん、もっと」
「ええ」
「わたしが、一番お金を出していました。だから、本命だって思ってた」
声が震えた。
「そう、思いたかった」
慈恩は何も言わない。
「違いました。わたしは、財布の一つでした。番号を振られていたんです。たぶん、三番か、四番」
膝の上の手が震えていた。
法廷の姿勢は、もう崩れていた。
◆◇
「気づかせ屋さん」
初めて、その人をまっすぐ見た。
「わたし、人を弁護する仕事を二十年やって、たった一人の弁護だけ、ずっと後回しにしていました」
慈恩は、線香の傾いた灰を、指の腹でそっと皿へ落とした。
火を絶やさないように。
「……だれを、ですか」
慈恩が初めて問い返した。
短い問いだった。
分かっていた。
分かっていたのに、口にすると、思っていたよりずっと重かった。
「……わたしを、です」
◆◇
言ってしまったら、堰が切れた。
「わたし、ずっと思っていました。仕事ができる女だって。誰にも頼らない。頼れない女が優秀なんだって」
「ええ」
「でも、あれ、嘘でした」
息を吸う。
「頼り方を知らなかっただけです。寂しさを認めるのが怖かっただけです」
言葉が落ちる。
「だから、貢いだ。お金を出しているあいだは、必要とされている気がしたから。これは愛だって、自分に言い聞かせて」
首を横に振る。
「あれは、愛じゃなかった」
慈恩は煙草の煙を細く吐いた。
「ええ」
◆◇
ふいに思い出した。
半年前。
別れ話を切り出したとき。
透は手首にカッターを当てた。
「律子がいないと、死んだほうがいい」
そう言った。
血も出ていた。
わたしは怖くなって、また金を出した。
あのとき、わたしは人を救う仕事のはずなのに、救われていたのは、わたしのほうだった。
勝ち負けじゃ、ないんですよー、たぶん。ただ、降りるだけです。
二つの嘘——あの男の自傷も、自分の「これは愛だ」も、律子はやっと声に出して並べました。気づかせ屋の仕事は、答えを言わずに、本人がたどり着くのを待つことだけ。
なのに、そこへ着信が一本。次の「降りる」で、この話は終わります。最終話を取りこぼしたくない方は、ブックマークを。
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