第5話「証拠開示」
証拠開示。
隠していたカードを、テーブルに並べる手続き。
わたしの得意分野だ。
相手の手の内を引きずり出す。
並べる。
突き合わせる。
矛盾を指で刺す。
二十年、それで勝ってきた。
人の嘘は、紙の上に並べてしまえば、もう嘘でいられない。
わたしはそう信じて、飯を食ってきた。
なのに、今日。
テーブルの向こうに座っているのは、相手方代理人ではなかった。
ひとりの女だった。
◆◇
喫茶店の奥の席。
知らない番号からの電話に、わたしは来てしまった。
真鍋透の件で、お話が。
たったそれだけで、足が勝手に動いた。
いつもなら警戒する。
相手の素性も、用件の裏も、確かめてから動く。
それが、わたしの流儀だった。
なのに、透の名前が出た途端、流儀はどこかへ消えた。
女は三十代半ばに見えた。
化粧の薄い、疲れた顔。
爪は短く切られている。
節の目立つ、働く女の手。
わたしはその手を見た。
そして、自分の手をテーブルの下に隠した。
女はコーヒーに手をつけなかった。
ただ、テーブルの上にスマホを置く。
画面をこちらへ向けた。
透からのメッセージだった。
『親が入院して、まとまった金がいる』
『来月には、必ず返す』
『きみだけが、頼りなんだ』
わたしはそれを読んだ。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
句読点の位置まで、覚えがあった。
わたしのスマホの中にも、同じものがある。
一字も違わない文章だった。
◆◇
「同じでしょう」
女が言った。
責める声ではなかった。
ただ、確かめる声だった。
わたしは答えなかった。
答える言葉が喉まで来て、止まる。
女は画面を指で送った。
次のメッセージ。
その次。
そのまた次。
日付だけが違う。
文面は、判で押したように同じだった。
親の入院。
わたしの時にもあった。
慌てて三十万を渡した。
返ってきたことは、一度もない。
あの時、わたしは思ったのだ。
わたしだから、頼ってくれた。
あの人が弱みを見せられるのは、わたしだけだ。
弁護士で。
稼いでいて。
ものわかりがよくて。
だから、選ばれたのだと。
違った。
同じ文章が、同じ顔で、別の女の画面にも立っていた。
わたしの特別は、テンプレートだった。
誰にでも送れる、定型文だった。
◆◇
「旅行に、行ったことは」
女が訊いた。
「……ええ」
「彼、写真を撮りますよね。あなたの手を」
息が止まった。
透は、撮る。
二人で出かけると、わたしの手をテーブルに置かせる。
その上に、自分の手をそっと重ねる。
証拠だよ。
そう笑って、撮る。
愛されている証拠だと思っていた。
その写真を、わたしは待ち受けにしていた。
女は画面を送った。
同じ構図だった。
同じテーブルの木目。
同じ照明。
同じ角度。
その上に、女の手。
さらにその上に、見覚えのある男の手。
ただ、下にある手だけが違う。
わたしの手ではない。
短い爪。
節の目立つ、この女の手。
「証拠だよ」
あの言葉まで同じだったのか。
訊けなかった。
訊けば、答えが返ってくる。
◆◇
わたしは自分の手を、膝の上で握った。
ブランドの時計が、手首で滑る。
透に買わされた時計。
文字盤より、ベルトのほうが高い時計。
その下に、母の形見の跡が、まだ薄く残っている。
頭の中で、何かが組み上がっていく。
わたしの得意な作業だった。
証拠を並べる。
時系列を引く。
矛盾を潰す。
事実認定する。
立証する。
何を。
わたしが、騙されていたことを。
わたしが、特別ではなかったことを。
二十年、人の嘘を見抜いてきた女が。
法廷で、何百という嘘を丸裸にしてきた女が。
自分の家の台所に立つ男の嘘だけは、見なかった。
見なかったのではない。
見ないようにしていた。
気づいていて、目を閉じていた。
わたしは、特別な女ではなかった。
ただ、財布の中で一番分厚かっただけだ。
◆◇
「あなた」
女が、テーブルに置かれたわたしの名刺を見た。
来る前に渡してしまった。
名乗るのが職業の癖だった。
「弁護士さん、なんでしょ」
「……ええ」
「なんで、気づかなかったの」
声に棘はなかった。
責めてもいなかった。
ただ、本当に不思議そうだった。
それが、いちばん刺さった。
頭のいい人が、なんで。
人の嘘で飯を食っている人が、なんで。
怒りなら、怒りで返せた。
けれど女は、わたしの賢さを信じていた。
信じたうえで、それが何の役にも立たなかったことを不思議がっていた。
わたしの二十年が。
わたしのいちばん誇っていたものが。
その一言で、音もなく崩れた。
「……わたしにも」
声が掠れる。
「わたしにも、分からないんです」
二十年で、初めて。
わたしは証言台で、言葉を失う側に立った。
そして、それだけが、わたしの唯一の本当だった。
◆◇
帰り道を、どう歩いたのか覚えていない。
電車に乗ったのか。
傘を差したのか。
誰かとぶつかったのか。
気がつくと、わたしは自分の家の台所に立っていた。
米を研いでいた。
透の好きな薄味の出汁を取っていた。
昆布を引き上げる。
灰汁をすくう。
手だけが勝手に動く。
頭が止まっても、手だけは覚えている。
声が出なかった。
ただいま、も。
遅くなった、も。
どうして、も。
喉の奥で何かが固く閉じていた。
出そうとすると、空気だけが漏れる。
冷蔵庫の脇に、ゼリー飲料が一本あった。
いつ買ったのか分からない。
封を切って、立ったまま吸う。
味はしなかった。
甘いはずなのに、何も感じなかった。
茶碗を洗う。
箸を揃える。
布巾を畳む。
水音だけが、台所に響いた。
神宝町の古書店主の台所を思い出す。
独りで、自分のために出汁を取っていた人。
明日も使うつもりの昆布を、取ってあった人。
わたしは二人でいて、自分の分の皿を出さなかった。
どちらが独りなのだろう。
あの日の問いの答えが、今日、出てしまった。
◆◇
リビングで、透が笑った。
ソファに寝そべって、スマホのゲームをしている。
軽い、無邪気な笑い声。
「メシまだ?」
それだけだった。
わたしの白い顔を見もしない。
何時に帰ったのかも訊かない。
わたしは振り返らなかった。
弁明させる気も、問い詰める気もなかった。
いや。
その言葉が、もうわたしの中に一つも残っていなかった。
ふと、思い出した。
初めて勝った裁判。
DVから逃げた依頼者の女性に、わたしは言った。
大丈夫。あなたは、一人でも生きていけます。
自信に満ちた声で。
握った手の温かさまで覚えている。
二十年前の、わたしの声。
いま、その言葉は、世界でいちばん遠くにあった。
わたしには、誰よりも似合わない言葉として。
わたしは人にそれを言えて。
自分には、ただの一度も言ってやれなかった。
包丁をまな板に置く。
とん、と乾いた音がした。
それが、わたしの出せる唯一の声だった。
◆◇
翌朝。
誰よりも早く、事務所に出た。
眠っていない。
顔は白いままだった。
机に向かって、何をするでもなく引き出しを開ける。
ペンを取ろうとしたのか。
それとも、ただ手を動かしたかったのか。
その奥に、一枚のカードがあった。
白い名刺。
慈恩
気づかせ屋
電話番号だけ。
住所はない。
わたしは、それをつまみ上げた。
軽い。
紙の軽さだ。
誰が。
いつ。
どうやって。
分からない。
昨日まで、こんなものはなかった。
なかったはずだ。
鍵のかかる、わたしの机の引き出しに。
名刺は、わたしの手の中で、薄く、白く、ただそこにあった。
わたしは特別な女じゃなかった。ただ、財布の中で一番、分厚かっただけだ。
この一行を書くための回でした。ここでは、何もお願いしません。
引き出しに名刺が一枚。誰が、いつ入れたのか——その続きだけ、置いておきます。




